2019年の島根を、2026年の「作る側」の目で読み直す
近々、世界遺産の佐渡金山を訪れる予定があり、ふと2019年に旅した石見銀山と温泉津(ゆのつ)温泉のことを思い出しました。
温泉津には二泊し、元湯や薬師湯に浸かり、レトロなカフェで休みながら巨大な登り窯を見学し、夜には石見神楽を観ました。そこから石見銀山、足立美術館、出雲大社へと足を延ばしています。
茶道を習い、陶芸をしている今は、旅先でもその土地の素材や文化を意識して見るようになりました。今回は2019年の旅をたどり直しながら、「銀がつくった町の文化」について考えてみたいと思います。
石見銀山は「銀の穴」だけではない



石見銀山の世界遺産としての正式名称は「石見銀山遺跡とその文化的景観」です。大事なのは、後半の「文化的景観」という言葉です。
世界遺産を構成しているのは鉱山跡だけではありません。鉱山町、製錬の痕跡、銀や物資を運んだ街道、そして銀を海へ送り出した港町までが、一つのシステムとして残されています。ユネスコも、採掘から輸送、積み出しまでの関係がまとまって保存されている点を評価しており、16世紀から17世紀初頭の石見の銀は、東アジアやヨーロッパとの交易にも関わっていました。
石見銀山を見るときに考えるべきなのは、どれほどの銀が採れたかよりも、銀をめぐって人間がこの土地をどう使ったのか、ということなのかもしれません。
龍源寺間歩——銀を掘るということ



静かな山道を歩いていくと、あちこちに採掘の跡が現れます。坑道の中に入ると、ここにどれほどの労働が注ぎ込まれたのかが体でわかります。
銀は、まず山の内部から人の手で鉱石を掘り出すところから始まります。それを運び出し、砕いて選別し、製錬を経て、ようやく銀になる。完成された工芸品や貨幣の背後には、こうした膨大な労働と技術が積み重なっています。
銀は山で完結しない——港町・温泉津
掘り出された銀は、日本海に面した温泉津を経由して運び出されました。
温泉津は、石見銀山が本格的に開発される以前から、日本海交易の港として栄えていたことがわかっています。そこに16世紀の銀山開発が重なり、銀の積出港として一層重要な役割を担うようになりました。石見銀山世界遺産センターも、温泉津を中世の日本海流通と銀山の両面から読み解いています。
温泉津温泉——銀の港に残った湯の町



温泉津では「のがわや旅館」さんに二泊しました。旅館の湯も温泉津の源泉を引いていますが、元湯から距離があるぶん温度が和らいでいて、ちょうどいい湯加減でゆっくり浸かれたと、当時のメモに残っています。
この旅館で聞いた話がずっと印象に残っています。ご主人によると、近年、石見神楽に惚れ込んでそのまま温泉津に移住してくる若者がいるそうです。そのときは「神楽がそこまで人を動かすのか」くらいに受け止めていたのですが、その夜、自分も神楽を観ることになります。
薬師湯——木造の町並みに現れる洋風建築



細い通りの両側に古い家並みが続く温泉街には、二つの代表的な共同浴場があります。その一つが、大正ロマンの趣を残す「薬師湯」です。木造家屋が並ぶなかに、丸みを帯びた洋風のファサードが突然現れます。
隣には、旧薬師湯の建物を使ったカフェ「震湯カフェ内蔵丞」があります。カフェ部分はかつての男湯の脱衣所、隣のギャラリーは女湯だったそうです。ステンドグラスや装飾がそのまま残り、温泉施設そのものの歴史を味わえる空間でした。
元湯——熱すぎて入れない湯



温泉津の元湯は成分がとても濃く、そして何より熱い。一番ぬるい湯船でも43度を超えていて、体が慣れるまでは、1分も入っていられませんでした。
地元の方からは「朝一番に入るのが通」と教わりました。朝は湯がきれいで、成分も濃いのだそうです。洗い場には温泉成分が堆積して独特の模様ができていたことも書き留めていました。陶芸をしている今なら、あの析出物をもっと細かく観察していたと思います。
土から生まれたもう一つの産業——温泉津焼



温泉街の近くにある「温泉津やきものの里」には、長さ約30メートルと約20メートルの二基の巨大な登り窯が残っています。
港に近く、周囲には良質な陶土や釉薬の原料、窯を焚くための木材があり、斜面は登り窯を築くのにも適していました。温泉津では「はんど」と呼ばれる大型の水甕や、すり鉢などの日用の器が盛んに作られていました。
戦後、暮らしの変化とともに大型の水甕の需要が落ち込むなか、河井寛次郎に師事した荒尾常蔵が1969年に温泉津へ移り、椿窯を開きます。現在も温泉津の窯元には、河井寛次郎の流れを汲む作陶が受け継がれているそうです。
石見神楽——紙と布が神になる



その夜、龍御前神社で石見神楽を観ました。境内の舞台は50人ほどが入れる空間です。
石見神楽といえば、巨大な大蛇が舞台を動き回る演目「大蛇」の印象が強く、豪華な衣裳、激しい囃子、色鮮やかな面と、初めて観る人でも引き込まれる視覚的な芸能です。この日舞っていたのは地元の高校生で、頭の先から指先まで神経の行き届いた所作が、本当にかっこよかったのを覚えています。
和紙でつくられる面



石見神楽の面には和紙が使われています。粘土で型を作り、そこに和紙を何層も貼り重ねて成形し、柿渋などで補強する。木彫に比べて軽く、汗にも強いそうです。「大蛇」の蛇胴にも、石見地方の石州和紙が深く関わっています。
神楽のあと、作り手の方を探して面を一つ「温泉津やきものの里」で購入しました。迫力のある色の付け方は今後のデザインに活かしたいとの思いがありました。
白、黒、赤、金。極端に強調された目と口、牙、角。神楽面はリアルな人の顔を写そうとはしていません。むしろ感情や性格を、色と形で極限まで増幅しています。
その後、実際の制作につながりました。持ち帰った面を手元に置いて、色の重ね方や目元の強調を参考にしながら、面を作りました。
実物を見ながら作ってみると、あの迫力が単に派手な色から来ているのではないことがわかります。どこを誇張し、どこを省くのか。その判断の積み重ねが、あの顔をつくっているのだと思います。
舞って初めて完成する衣装


もう一つ目を奪われたのが衣装でした。金、赤、黒、緑の地に、龍や炎、波の文様、鏡のような装飾。金糸をふんだんに使った衣装はとても高価で、重さは数十キロにもなる聞きました。
それを着て、長時間激しく舞う。身体が動けば布が動き、袖が広がり、刺繍が揺れて光を返す。石見神楽の衣装は、踊って初めて完成する服なのだと感じました。
足立美術館——「庭園もまた一幅の絵画」



旅の途中、「足立美術館」にも立ち寄りました。残っている写真を見返すと、ほとんどが庭ばかりで、北大路魯山人の作品も撮っておけばよかったと今になって思います。
足立美術館は横山大観を中心とする近代日本画で知られますが、魯山人の陶芸も数多く所蔵し、現在は魯山人館も設けられています。創設者の足立全康は「庭園もまた一幅の絵画である」という考えを持っていたそうです。庭ばかり撮っていた当時の自分は、ある意味でその思想に素直に従っていたのかもしれません。
出雲大社——石見とは別のもう一つの文化圏



石見から出雲へ移ると、同じ島根県でも空気が大きく変わります。石見銀山で見たのは、山から銀を取り出し、加工し、道を通して港へ運ぶという、人間と地下資源の関係でした。出雲大社で向き合うのは、神話と信仰です。
御祭神は大国主大神。『古事記』『日本書紀』に語られる国づくりと国譲りの神であり、国譲りののち、目に見えない「神事」の世界を司るようになったという伝承が、今も出雲大社の祭祀の根幹にあります。国をつくり、国を譲り、目に見える世界と見えない世界を分ける。そこには、日本という国の成り立ちを説明しようとした、巨大な物語があります。
稲佐の浜の砂——海から神社へ、神社から暮らしへ
今回出雲大社について調べ直していて、あらためて気になったのが「砂」です。
稲佐の浜で砂をいただき、それを御本殿の北側にある素鵞社へ持参して床下に供える。そして代わりに、以前からそこにある御砂をいただいて帰る。出雲大社も公式に案内している作法で、持ち帰った御砂は御守にしたり、土地や田畑を清めるために用いるそうです。
海岸の砂が人の手で神社へ運ばれ、神前に供えられた砂が、今度は家へと持ち帰られる。海から神社へ、神社から暮らしへ。ごく普通の砂が、移動と祭祀を経ることで意味を帯びていきます。
神々がやって来る浜
稲佐の浜は、神々を迎える場所でもあります。旧暦10月、全国から神々が出雲に集まるとされる「神在月」。その神々を迎える神迎神事が行われるのが稲佐の浜で、今も神々を迎えたのち、龍蛇神を先導に出雲大社へ御神幸する神事が続いています。
稲佐の浜は、海と陸、人と神、神話と現在の境界にあるのです。石見では山から海へ銀が運ばれていきました。出雲では、海から神々がやって来る。同じ島根の旅でも、物や存在の移動する向きが逆なのが面白いところです。
米が酒になる——王祿と丈径
島根について、もう一つ忘れたくないのが日本酒です。特に印象に残っているのが「王祿」と「丈径」で、どちらも松江市東出雲町の「王祿酒造」のお酒です。
王祿酒造は東出雲町揖屋に蔵を構え、江戸末期から170年以上酒造りを続けています。もともとの屋号は「麹屋」。秋に納められる米を活かすために麹作りを始めたのが商いの始まりだったそうで、現在も年間約600石という規模で、少人数の蔵人が酒を造っています。ここでも主役は土地から採れるもの。銀ではなく、米です。
丈径——一人で仕込んだ一本のタンクから
「丈径」は、六代目・石原丈径氏の名を冠した純米吟醸です。精米歩合55%、麹米・掛米ともに東出雲町上意東地区産の山田錦を使っています。
始まりは1995年。六代目が初めて蔵に入った年に、小さなタンク一本を一人で仕込んだ酒だったそうです。代々続く蔵の中で、若い造り手が一本の小さなタンクから自分の酒を始め、それがやがて自分の名を持つ銘柄になる。蔵は「丈径」を、上意東産の米の野性味を引き出した、王祿らしさを体現する酒と位置づけています。
味を均一にしない酒造り
王祿酒造の方針にも惹かれます。無濾過で、できる限り火入れをせず、全量を瓶で貯蔵する。異なる仕込みをブレンドして味を揃えることをせず、限定生産を貫き、蔵だけでなく特約店にも厳格な低温管理を求めています。
とりわけ「ブレンドをしない」という考え方が面白いと思います。毎年同じ味に整えるのではなく、タンクごとの違いを残す。工業製品のように均一にするのではなく、その年の米、その仕込みが持っていた差を消さない。ただ「おいしかった」で終わらせず、こうした背景を知ると、一杯の見え方が変わります。
次に出雲へ行くなら——竹野屋旅館
次に出雲を訪れるなら、泊まりたい宿があります。出雲大社の正門前にある「竹野屋旅館"is.
創業は1877年。現在の木造本館は1929年の建築で、もともと出雲大社への参拝客のための宿として始まりました。竹内まりやさんのご実家としても知られています。
できれば本館の特別室「素鵞の間」に泊まってみたいと思っています。皇室関係者をはじめ多くの著名人が利用してきた部屋で、その名は出雲大社の素鵞社とも響き合います。稲佐の浜で砂をいただき、素鵞社に参拝し、竹野屋に泊まって、島根の酒を飲む。それは単に良い旅館に泊まるということではなく、明治以来の出雲大社参詣の文化そのものに身を置くことなのだと思います。



銀の石見から、金の佐渡へ


石見銀山では、シルバーのネックレスを一本買いました。石見の銀で作られたものではないと思います。それでも、銀を掘った山を歩いた日に銀の装身具を持ち帰ったという事実は、今振り返ると少し面白く感じます。
その後、私は自分でもアクセサリーを作るようになり、これまでにシルバーを使った作品を5点ほど制作しました。龍源寺間歩で見た岩肌と、机の上にある銀板や銀線は、もちろん直接つながっているわけではありません。それでも、素材の出発点と完成品の両方を見たことで、銀を単なる「色」や「高級素材」として見ることはなくなりました。
2019年には石見銀山から温泉津まで歩きました。そして2026年、今度は新潟から佐渡へ向かいます。石見は銀、佐渡は金と銀。どちらも鉱山遺産ですが、石見を振り返って見えてきたのは、鉱山とは穴そのものではなく、そこから広がる道や港、湯、器、祭り、酒までを含めた「土地の使い方」だということでした。佐渡では、その視点で金がつくった町を歩いてみたいと思います。




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