なぜ新潟には「豪農」が生まれたのか|北方文化博物館・伊藤家から読む越後の富と文化

石を敷いた枯流れの庭越しに見る北方文化博物館の伊藤家旧邸 日本旅行記
水を使わず石で流れを表現する部分も、伊藤邸の庭の見どころの一つです。

北方文化博物館

新潟市街から北方文化博物館へ向かう途中、車窓の外には一面の田んぼが広がっていました。「北方文化博物館」について調べると、「越後随一の豪農・伊藤家の邸宅」という説明がまず出てきます。

長野の実家では兼業で米を作っていて、小さな頃から田植えを手伝ってきました。もちろん、現代の小規模な兼業農家と、近世から近代にかけて巨大な土地を所有した豪農はまったく別のものです。

そして、自分でも田んぼに入ってきたからこそ、「土地から米が生まれ、その米が富になる」という構造自体には、実感はありました。

実際に北方文化博物館を訪れてみると、豪壮な屋敷を見る前に、その周囲に広がる土地と米を見る必要があるように思いました。なぜなら、伊藤家の富を生み出したものこそ、この越後平野の土地だったからです。

「豪農」とは何だったのか

豪農という言葉から、「非常に裕福な農家」を想像する人も多いと思います。

もちろん間違いではありません。ただ、近世から近代にかけての豪農は、自ら田畑を耕すだけの農民ではありませんでした。

広大な土地を所有し、小作農から小作料を受け取り、米や土地を基盤として金融、商業、倉庫業などにも進出する。地域によっては経済だけでなく、政治や文化にまで大きな影響力を持つ存在になっていきます。

伊藤家の始まりは、現在の巨大な屋敷からは想像できないほど小さなものでした。

初代文吉は1746年、20歳で分家し、約13,000㎡の畑と六畳二間ほどの家から生活を始めます。農業のかたわら藍の商売を始め、二代目の時代には雑穀、質屋、倉庫業へと事業を広げ、やがて農業そのものから離れて豪商へと成長していきました。

そして代を重ねながら土地を取得していき、1944年には所有地が1,372haに達します。

13,000㎡から始まった一家が、およそ200年をかけて1,000倍の1,300haを超える土地を所有するまでになります。北方文化博物館は、まさにその蓄積が建築という形になった場所です。

8年をかけて造られた伊藤邸

現在の伊藤邸の建設が始まったのは1882年。

五代文吉が約18,000㎡(東京ドームのグラウンドの約1.4倍)の土地に新邸を計画し、会津、山形、秋田などから資材を集め、約8年をかけて1889年に完成させました。最盛期には約60人もの使用人がこの家で働いていたといいます。

実際に歩いてみると、「大きな日本家屋」という言葉だけでは説明しきれません。30メートルにもなる一本の杉の丸桁、幾重にも組まれた梁。建物そのものが、伊藤家の経済力だけでなく、当時集めることのできた高品質な材料と職人技術の集積になっています。

そして最も印象的なのが、大広間です。

約100畳。

写真で見ても大きいのですが、現地に立つと、畳の枚数以上に「庭との距離のなさ」に驚きます。柱を極力減らした開放的な座敷の向こうに、そのまま庭園が続いています。

建築と庭を別々に鑑賞するのではなく、座敷から庭を見るという行為そのものが空間として設計されています。

「君子中庸に居る」——家に掲げられた言葉

大広間には、「君子中庸に居る」と書かれた額が掲げられていました。五代当主の学問の師でもあった漢学者・長三洲による書で、伊藤家の家訓の一つとして伝えられています。

これだけ巨大な土地と屋敷を持った家の中心に掲げられているのが、「富め」「拡大せよ」という言葉ではなく、中庸を説く言葉なのです。別の場所には「以倹養徳」、つまり「倹をもって徳を養う」という家訓も残されています。

富を持つことと、それをどう律するか。

伊藤家の屋敷を見ると、建築だけでなく、そこに掲げられた書や道具まで含めて、一つの家の価値観が構成されていることが分かります。

大広間の前には、館の案内で「気を発する石」と紹介されている御影石があります。伊藤家の祖先が積んだ徳によって館内に「気」が満ち、とりわけこの石から良い気が発せられる、という説明です。

こうした話をどう受け取るかは人それぞれですが、豪農の館が単なる建築物ではなく、家の記憶や土地の物語まで含めて語り継がれていること自体が興味深いと思いました。

100畳の大広間の裏側にある「仕事」

主屋には帳場、茶の間、台所が続いています。さらに二階には、土地経営に用いられた帳簿も残されていました。地域ごとの作徳米帳や水入れ帳です。

つまり、この巨大な地主経営は、当然ながら「土地を持っている」だけでは成立しません。どこに、どれだけの田畑があり、誰が耕し、どれほどの米が動いたのか。膨大な情報を管理・処理する事務機構が家の中に存在していました。

台所も圧倒的です。かつて大勢の使用人が働いた炊事場には、大甕、流し、竈、桶、調理道具が残されています。公式案内によれば、台所だけで約70坪あったといいます。

100畳の大広間が「見せるための伊藤家」だとすれば、帳簿と台所は「伊藤家を動かしていた場所」です。この両方を見ることで、初めて豪農という存在が実感できました。

米を蓄える蔵が、美術を蓄える蔵になる

さらに面白かったのが、現在「集古館」として使われている建物です。ここはもともと米蔵でした。

1919年に建てられ、約2,000俵の米を保管できる構造を持っていました。現在では、中国・韓国陶磁、日本の古美術などを展示する空間になっています。

かつて米を蓄えていた蔵が、現在は文化を蓄えている。館内には唐三彩の馬をはじめ、中国陶磁、伊万里、鍋島、漆芸、古代エジプトの資料まで、多様なものが並んでいました。

もちろん、これらすべてが代々の伊藤家伝来品というわけではなしく、博物館の設立にあたり、七代当主は「博物館としてふさわしいコレクションを揃えなければならない」という使命感を持ち、美術品を収集したそうです。

つまりここでは、地主の富が美術収集へ変わり、さらにそのコレクションが個人所有から公共的な文化財へと変化していったことになります。

白楽茶碗と「道具を見る」ということ

陶芸をしている自分としては、やはり器の展示に長く足が止まりました。

中でも気になったのが、江戸後期の吉村観阿による白楽茶碗。白い釉調の中に灰色や黄色が不規則に現れ、整いすぎていない口縁と、量感のある胴が印象的でした。

茶碗は、写真だけで理解するのが難しいものです。口造り、高台、胴のふくらみ、釉薬の厚み。自分で陶芸を始めてから、美術館で器を見る時間は明らかに長くなりました。「何が美しいか」だけではなく、「どう作ったのか」を考えてしまうからです。

北方文化博物館は豪農建築を見る場所だと思って訪れましたが、陶芸をしている自分にとっても予想以上に見どころの多い場所でした。

21歳の当主が設計した、三角形の茶室「三楽亭」

そして、もう一つの見どころが三楽亭です。1891年、六代当主が21歳のときに自ら設計した茶室兼書斎。

「三楽」という名前は孟子の「君子に三楽あり」に由来します。

  • 一楽(いちらく):父母倶存、兄弟無故意味:両親が健在で、兄弟たちにも災難や病気がなく無事でいること。
  • 二楽(にらく):仰不愧於天、俯不怍於人:天に対して後ろめたいところがなく、人に対しても恥ずかしくない、清らかな生き方をしていること。
  • 三楽(さんらく):得天下英才而教育之:天下から優れた才能を持つ若者たちを集め、育てること。

驚くべきなのは、建物そのものが正三角形ということ。

内部は菱形と三角形の部屋で構成され、柱、畳、建具、引き出しにまで三角形や菱形が反復されています。円窓も設けられ、六代当主が瞑想に用いたとも伝えられています。

100畳の大広間とはコンセプトが真逆です。大広間は家の権威を示し、大人数を迎える空間。一方の三楽亭は、極端に個人的な美意識が凝縮された空間です。

同じ伊藤邸の中に、この二つが並存しているのが非常に印象的でした。

豪農文化というと豪壮な屋敷ばかりが注目されますが、その富は茶、書、庭、建築といった「数寄」の世界にも流れていました。

庭園は、伊藤家の時代が終わった後に完成した

大広間から見える庭も、北方文化博物館の大きな魅力です。

庭園内には、三楽亭とは別にいくつもの茶室が点在しています。積翠菴、是空軒、いはのや、佐度看亭、時庵です。中でも気になったのが積翠菴。表千家の不審菴を模して造ることを許された由緒を持つ茶室で、かつて三楽山茶会では濃茶席として使われてたそうです。さらに「佐度看亭」という名の茶室もあります。かつてここから佐渡を望むことができたため、この名がついたといいます。

この庭園を手がけたのは、新潟県柏崎出身の庭師・田中泰阿弥。戦後、5年をかけて作庭し、1958年に完成しました。各部屋からの視線まで計算された池泉回遊式の庭で、泰阿弥自身が自らの最高傑作と誇ったとされています。

つまり、この庭の完成は「伊藤家が大地主だった時代」より後なのです。

北方文化博物館は、昔の豪農邸を凍結保存しただけの場所ではなく、地主の館が博物館へ生まれ変わる過程そのものが、この場所の歴史になっています。

農地改革——「家」を残すために、家を手放す

第二次世界大戦後、日本では農地改革が行われました。地主が保有していた農地は買収され、小作農へと移されていきます。伊藤家も例外ではなく、広大な土地を失いました。

普通に考えれば、ここで一つの大地主の歴史が終わっていても不思議ではありません。ところが七代当主は別の道を選びます。

「博物館をつくり、財産の総てをこれに寄付する」。

1946年、建物、庭、美術品を後世へ残すため財団が設立され、北方文化博物館が誕生しました。公式には「戦後の私立博物館第1号」とされています。

この決断には、進駐軍のラルフ・ライト中尉との出会いも関係したそうです。調査に訪れたライトが偶然、七代当主と同じペンシルバニア大学の縁を持つ人物だったことから交流が始まり、伊藤邸を日本の生活文化を伝える文化遺産として残す構想を支援したといいます。

大地主制は終わったものの、家そのものは別の役割を得ました。

私有財産だったものを、文化として社会へ開く。

北方文化博物館で最も興味深かったのは、実はこの転換でした。

映画やドラマの中で、別の時代を演じる伊藤邸

北方文化博物館は、保存された建築であるだけでなく、映画やドラマの撮影場所としても使われています。

特に面白いのが、司馬遼太郎の小説を原作とする映画『峠 最後のサムライ』です。

幕末の長岡藩家老・河井継之助を役所広司が演じた作品で、百畳敷きの大広間は、河井が藩主・牧野忠恭に自らの考えを述べる場面の撮影に使われました。

伊藤邸が完成したのは明治時代です。厳密には、河井継之助が生きた幕末より後の建築になります。それでも撮影場所として成立するのは、この屋敷が江戸時代以来の武家建築の格式を受け継いでいるからでしょう。

実際にその大広間に立ったあとで映画を見ると、セットでは作りにくい柱の太さ、畳の広がり、庭まで続く奥行きそのものが、役者の演技を支える舞台装置になっていることが分かります。

そし、この同じ屋敷は2026年のNetflixシリーズ『地獄に堕ちるわよ』では、まったく別の時代を演じています。細木数子の半生を描いた作品で、北方文化博物館は戸田恵梨香演じる数子の婚礼場面に使用されました。

『峠』では幕末の長岡藩、『地獄に堕ちるわよ』では昭和の婚礼。同じ大広間が、作品ごとに異なる「格式ある日本」を表現しています。

ここには、歴史建築を残すことのもう一つの意味があるように思います。

建物は、ただ保存されるだけでなく、実在した伊藤家の生活空間が、博物館となり、さらに映画やドラマの中で別の時代、別の人物、別の家の記憶を演じていく。

七代当主が戦後にこの屋敷を博物館として残さなければ、河井継之助の物語も、細木数子の物語も、ここで撮られることはありませんでした。

カフェで起きた、ちょっとした偶然

館内を一通り見たあと、大藤棚の目の前にあるカフェ『井戸小屋』でお汁粉の軽食を取りました。

店内にオオスズメバチが侵入し、対処しているうちに、スタッフの田中さんと話するように。建築や茶、陶芸を見て回っていることを面白がってくれたようで、たまたま居合わせた現在の伊藤家当主の方を紹介していただきました。

紹介といっても、ほんの短い立ち話です。それでも不思議な感じがしました。展示室では、初代から八代までの伊藤家の歴史を読み込んで、帳簿、や調度品、茶器を鑑賞し、屋敷も庭も歩き回りました。その最後に、その家の歴史が今も続いていることを、突然目の前で実感したからです。

富は何に変わるのか

歩きながら考えていたのは、結局、「富は何に変わるのか」ということでした。

越後平野の土地が米を生み、米と商売が伊藤家の富を生む。その富が巨大な建築を生み、庭を生み、茶の湯や書画、美術収集を可能にする。そして大地主という制度が終わったあと、その私有財産が博物館へと変わる。

土地 → 米 → 富 → 建築・庭・茶・美術 → 博物館。

北方文化博物館へ向かう前に見た一面の田んぼの情景と、帰り際に見た大広間や集古館が、最後には同じ一本の線でつながりました。

ここは「なぜ新潟にこれほど豊かな建築、庭、茶、料理、工芸文化が残ったのか」を考える適切な入口になる場所だと思います。

そしてこのあと新潟市内で見た旧齋藤家別邸、古町、鍋茶屋へと歩いていくと、この土地で生まれた富が、別の形で都市文化へ変換されていくのが見えてきます。

新潟・佐渡を巡る旅は、ここから始まりました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました