海を渡って佐渡へ



新潟港からジェットフォイルに乗り、佐渡へ渡りました。フェリーの約半分の1時間ほどで到着しました。
佐渡を訪れるのは今回で二度目。前回は小さい頃だったせいか、記憶に残っているのは「金山の島」という漠然としたイメージくらいでした。
佐渡島は金が採れた島、江戸幕府の財政を支えた鉱山、罪人が過酷な労働をさせられた場所など、そのイメージはどれも間違いではありません。今回の旅を終えると、そのイメージはずいぶん違うものになっていました。
島を移動して見えてきた佐渡



ニッポンレンタカーで車を引き取り、トキを探しながら、まずは昼食のために新穂田野沢にある「蕎麦 茂左衛門」さんを目指します。
車に乗り込み車を走らせたとき感じたのは、島の大きさでした。島には2つの1,000メートル級の本格的な山脈である大佐渡山脈・小佐渡山脈が並走しています。その間の国中平野(くになかへいや)には見渡す限りの田んぼが広がっています。島とは思えないほどのスケールです。
「蕎麦 茂左衛門」は、古民家を改装したお店で、十割の手打ち蕎麦と佐渡の食材を使った料理を出されています。蕎麦は、焼きアゴ出汁を使う佐渡流の「ぶっかけ」と、鰹出汁で食べる江戸前の「もり」から選べます。アルコールのメニューには佐渡の日本酒銘柄が並び、器も古い家の雰囲気によく合っていました。
帰り道の新穂を走っていると、田んぼにトキがいるのを見つけました。車から降車して近づいてみると30mほどで飛び立ってしましました。現地の方にお話を聞くと、年々、その距離は短くなっているそうです。出来ればトキを刺激せずに、車中から観察しましょうとのアドバイスされました。
日本の野生のトキは一度姿を消し、その後、人工繁殖と野生復帰の取り組みが続けられてきました。2008年9月25日に行われた最初の放鳥の場所も、ここ新穂の水田でした。



相川町に宿泊



車をさらに走らせ、島の西側の相川に着きました。泊まったのは「NIPPONIA 佐渡相川 金山町」。
相川の町は、斜面に沿って家々が並び、細い坂道の先に海が見えます。古い木造の建物が今も多く残り、歩いているだけで、ここが普通の港町とは少し成り立ちの違う町であることが伝わってきます。
「NIPPONIA 佐渡相川 金山町」は、2024年7月に開業した分散型ホテルです。大きなホテルを一棟建てるのではなく、相川に残る古民家を客室として再生し、町そのものを宿泊空間として使う「相川まちごとホテル」という考え方で、運営も相川の住民を中心に設立された株式会社相川車座が担っています。以前に「NIPPONIA 秩父 門前町」に宿泊しましたが、経営母体が違うそうです。
泊まったのは、その中心となる「清水家」でした。






ここはもともと無名異焼の窯元であり、瀬戸物屋だった建物です。通り土間には、この家で実際に焼かれていた煉瓦が敷かれ、昔使われていた箪笥がカウンターとして再利用されています。古い電気窯をテーブルに転用した客室や、蔵を生かした客室、京町通りには、かつて鉱山労働者が暮らした住宅を再生した一棟貸しの客室があります。今回は電気窯の部屋を取りました。
相川金銀山の開発が本格化したのは、16世紀末から17世紀初頭。徳川家康は佐渡を幕府の直轄地とし、1603年には大久保長安によって行政の拠点が相川に移されます。金銀山を目当てに全国から人が集まり、相川は最盛期には約5万人が暮らしたともいわれる鉱山都市になりました。人が集まれば、宿や商店、飲食、信仰、娯楽が必要になります。今の相川に残る坂や町割りは、そうして「鉱山へ向かう町」としてつくられたものだそうです。
この宿は2025年に米『TIME』誌の「World’s Greatest Places 2025」にも選ばれています。



翌朝、時鐘楼の近くにある京町茶屋で朝食をとりました。テーブルに置かれたのは二段の竹籠。開けると、白いおにぎりが三つ。もう一段には、卵焼き、煮物、海藻、漬物が少しずつ入っています。オーシャンビューのカウンター席からの眺めはとてもよかったです。



金山を見る前に、きらりうむ佐渡へ



史跡・佐渡金山を歩く前に、佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」に立ち寄りました。大型映像や地形模型で、金銀山の全体像を説明している施設です。ホテルの特典についていました。
このきらりうむで押さえておきたいのは、2024年に世界文化遺産となった「佐渡島の金山」が評価されたのは、金の算出量ではないということです。評価の中心は、江戸時代の佐渡で発達した機械化以前の採掘・製錬技術と、それを支えた生産組織、労働組織、そして鉱山都市の構造でした。
鉱脈があって坑道ができ、その下に排水の仕組みがある。掘り出された鉱石は選鉱・製錬され、奉行所が管理し、その周りに町ができました。この全体像を先に頭に入れておくと、これから見る史跡が、別々の観光地ではなく一つのシステムの各部分として見えてくる、そんな工夫のある展示でした。



金山が開かれる前、世阿弥は佐渡を「金の島」と呼んでいた
佐渡を「流刑の島」として考えるとき、無宿人よりはるか以前に、この島へ送られた有名な人物がいます。能を大成した世阿弥です。
世阿弥は室町幕府三代将軍・足利義満の庇護を受け、父・観阿弥とともに猿楽を芸術へと高めました。しかし六代将軍・足利義教の時代になると立場を失い、1434年、70歳を超えて佐渡へ流されます。
佐渡に渡った世阿弥は、多田に上陸し、長谷寺や万福寺、正法寺などにゆかりを残しました。そして島での旅や暮らしをもとに、小謡集『金島書』を著しています。記された年号から、少なくとも1436年までは佐渡にいたことがわかっています。
興味深いのは、その題名「金島」、つまり金の島。相川金銀山が本格的に開発されるのは17世紀初頭ですが、それよりはるか以前から、佐渡では西三川などで砂金が採られ、金を産する島として京都にも知られていました。世阿弥もまた、『金島書』の中で佐渡の風景と「金の島」とを結びつけています。
ただ、世阿弥の配流と、今に残る佐渡の能文化をそのまま結びつけるのには注意が必要なようです。佐渡で能が広く普及する大きなきっかけになったのは、江戸時代に入ってからでした。金銀山の開発を担った大久保長安らによって能が広められ、やがて武士だけでなく農村にまで浸透していきます。現在も島内には、大小30を超える能舞台が残るとされています。
正法寺には、世阿弥が雨乞いの際に着けて舞ったと伝えられる「神事面べしみ」が残されています。この面を着けて舞うと雨が降ったという伝承があり、現在は新潟県の指定有形文化財になっています。
佐渡奉行所——地上の統治機構


その大久保長安によって、1603年、鶴子銀山の陣屋が相川に移され、後の佐渡奉行所となります。
現在の建物は、発掘調査や絵図をもとに2000年に復原されたものです。奉行所には、行政を担う御役所や奉行の住まいだけでなく、金銀を選鉱・製錬する「勝場(せりば)」まで置かれていました。佐渡市によれば、鉱山の生産施設を内部に持つ奉行所は国内で唯一の例だそうです。
行政と生産が、同じ敷地の中でつながっていました。佐渡金山が民間の事業ではなく、幕府の統治機構そのものと一体だったことがわかります。ここでは、金を掘ることがそのまま政治でした。
では、その統治の足元、地下では何が行われていたのでしょうか。
宗太夫坑——その下で人はどう働いたのか



「宗太夫坑(そうだゆうこう)」は、江戸時代の大型坑道の一つです。坑内には当時の採掘、運搬、排水の作業が人形で再現され、のみの跡や油煙の跡も残っています。坑道に入ると、空気がひんやりと変わります。
鉱石を掘り出していたのは、「金穿大工(かなほりだいく)」と呼ばれる採掘の専門職です。金山では、ほかにも山師、測量技術者、坑道の支柱を組む職人、鉱石を運ぶ人々など、多くの専門職が働いていました。
そして何より厳しい仕事だったのが、水との戦いです。地下深くへ掘り進めるほど、水が湧き出してきます。坑道に水がたまれば、採掘はできません。その排水を担ったのが「水替(みずかえ)」と呼ばれる人たちでした。桶で水を汲み上げ、上の段へ渡し、また汲む。水上輪(すいしょうりん)と呼ばれる揚水装置も使われました。金を掘る以前に、地下を人が働ける空間として保つための労働が、絶え間なく続いていました。
水替には、佐渡島内から雇われた人々もいました。一方で、18世紀後半からは、江戸などの都市で人別帳から外れた「無宿人((むしゅく人)」が佐渡へ送られ、水替人足として働かされました。
1778年に始まったこの送り込みは幕末まで続き、展示によれば、約100年間で1,874人が佐渡へ送られています。佐渡市の調査では、この制度は佐渡側が求めたというより、都市部に増えていた無宿人への幕府の対策として始まったものだそうです。
多様な専門職によって成り立っていた鉱山の中で、後期には無宿人が最も過酷な排水労働に投じられた、というのが実態に近いのでしょう。
なぜ「佐渡=罪人」のイメージが残ったのか



宗太夫坑で、水を汲み続ける水替人足の人形を見ながら思い出したのが、松本清張の短編『佐渡流人行』でした。
物語では、寺社奉行所の役人・黒塚喜介が、自分の妻との仲を疑った男・弥十に私怨を抱き、彼を佐渡金山へ送り込もうとします。佐渡に渡った弥十を待っていたのは、地下から湧き出す水を汲み上げ続ける、水替人足の苛酷な労働でした。人形を見た直後にこの作品を思い返すと、その場面に臨場感が生まれます。
同じ清張でも、1958年刊行の短編集『無宿人別帳』では、焦点が少し変わります。人別帳、今でいう戸籍に近い制度から外れた「無宿者」を主人公にしたこの作品で、清張は彼らを単なる犯罪者としてではなく、江戸社会の制度からこぼれ落ちた人間として描きました。佐渡からの島抜けを描いた「逃亡」も収められています。
「無宿」とは、まず社会的な身分でした。住む場所を失い、人別帳から外れ、仕事や共同体から締め出された人々が都市にたまっていく。その処遇の問題と、鉱山が求める労働力とが結びついた結果が、佐渡への送り込みだったのです。
『佐渡流人行』が一人の男の苦役を描いたとすれば、『無宿人別帳』は、その背後にある社会の仕組みへと視野を広げています。目の前の人形も、罪を罰せられた人というより、社会の外に置かれた人の姿として見えてきました。
1963年には『無宿人別帳』が井上和男監督によって映画化され、江戸から佐渡へ送られた無宿人たちと、水替の労働が物語の中心に描かれました。暗い坑道で水を汲み続ける身体のイメージは、文学から映画へと受け継がれ、「佐渡=罪人の島」という印象を強めていったのでしょう。
その視点をさらに推し進めたのが、月村了衛の『十三夜の焰』です。作中でも佐渡金山の水替人足が描かれ、作者は佐渡を舞台にした理由として、人足寄場や無宿人の問題がテーマと深く結びついていたことを挙げています。そこにあるのは、個人の苦役でも、社会からこぼれ落ちた人々の姿でもなく、人の命を消費しながら国家の制度が維持される構造です。
一人の男の苦役から、社会の仕組みへ、そして国家の統治へ。三つの作品を並べると、視野が少しずつ広がっていきます。
山まで変形させた——道遊の割戸



山の頂が、巨大なV字に割れています。
これは自然にできた形ではなく、地表に現れた金銀の鉱脈を、人がそのまま追って掘り進めた結果です。佐渡市は、日本最大の露頭掘り(ろとうぼり)の跡と説明しています。
坑道の中では、人が山の内部へ入っていったことを感じました。道遊の割戸では反対に、人の採掘が山の形そのものを変えてしまったことが、一目でわかります。地形そのものが、人間の経済活動の記録になっています。
江戸から近代へ



佐渡金山の歴史は江戸時代で終わりません。明治になると官営鉱山となり、西洋人技術者を招いて機械化が進められました。その後、皇室財産を経て、1896年に三菱へ払い下げられます。
この時代の金山を、人の側から描いたのが田中志津の小説『佐渡金山』です。田中は昭和初期、三菱鉱業佐渡鉱山で最初の女性事務員として働き、その経験をもとに、金山の隆盛から衰退へ向かう時代を生きた人々を描きました。江戸の無宿人だけでなく、近代の鉱山で働き、暮らした人々もまた、佐渡金山の担い手でした。
その近代を象徴するのが、「北沢浮遊選鉱場"is.
1938年、国策による金の増産を背景に建設され、月5万トンもの鉱石を処理できる施設へと発展しました。1940年には、佐渡鉱山で明治以降最大の産金量を記録しています。
今は機械の多くが失われ、鉄筋コンクリートの躯体だけが斜面に残っています。植物に覆われた姿は絶景の廃墟として知られていますが、写真をよく見ると、建物が斜面に沿って段々に積み重なっているのがわかります。上から下へ、鉱石を流しながら処理していくための構造です。かつてここでは、品位の低い鉱石を大量に処理するための機械が動き、田中志津が描いたような人々が働いていました。
北沢浮遊選鉱場は、2024年に登録された世界遺産の構成資産ではありません。世界遺産が評価したのは江戸時代の手工業的な鉱業で、北沢を含む近代の遺産は含まれませんでした。
しかし、宗太夫坑と北沢を並べて見ると、佐渡金山の約400年の変化がよくわかります。人が鑿で掘り、桶で水を汲んだ坑道と、コンクリートの斜面に機械が並んだ選鉱場。同じ山で起きたこととは思えないほどの距離があります。
鉱山の土が器になる——無名異焼



今回、陶芸をしている身として最も楽しみにしていたのが「無名異焼That was it.
無名異焼の原料となる無名異土は、酸化鉄を多く含む赤土で、金銀の鉱脈の周辺から産出します。佐渡では、金を生んだ地質そのものが、陶芸の材料にもなったのです。
19世紀初頭には無名異土を使った赤い楽焼が始まり、明治時代になると、高温で硬く焼き締める現在の無名異焼が生まれました。2024年には、佐渡市で初めて国の伝統的工芸品に指定されています。
無名異土は粒子がとても細かく、成形から乾燥までの収縮率が大きいといいます。普段土を触っている身からすると、収縮が大きい土は、乾燥や焼成で歪みや割れが出やすく、扱いに神経を使うはずです。その土を磨き上げることで独特の光沢が生まれ、焼き締まった器は金属のような音を立てる。扱いにくさと引き換えに、ほかの土にはない表情を手に入れているのだと思います。
五代伊藤赤水は無名異焼を発展させ、2003年に重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定されました。
ラ・パゴッドへ



相川に宿泊した日の夜、阿佛坊にある「ラ・パゴッド」で食事をしました。
店名の「パゴット」はフランス語で仏塔のこと。向かいに、新潟県内で唯一現存する五重塔を持つ妙宣寺があることから名づけられました。もとは土産物店だった建物を改装し、2022年に開業しています。
厨房の中心にあるのは、フランスから運んだ薪窯です。佐渡の森から切り出して乾かした薪の火で、島の魚や野菜、肉、果物を調理する。食材は一部の香辛料などを除けば、ほぼ佐渡産だそうです。



金山の記憶は映画になった
2024年、佐渡の金山跡地を舞台にした映画が公開されました。富名哲也監督の『わたくしどもは。"is.
小松菜奈さんと松田龍平さんが演じる二人は、自分の名前も過去も覚えていません。作品は、監督が佐渡で目にした無宿人の墓から着想されたといいます。
1963年の『無宿人別帳』で、無宿人は「働かされる身体」として描かれていました。それから約60年後の『わたくしどもは。』では、その身体はもう存在せず、残っているのは土地に積もった記憶と、名前を失った人の気配だけです。
相川金銀山の採掘は、1989年に終わりました。坑道の総延長は約400キロ、最深部は海面下530メートル。約400年にわたって人が入り続けた山は、いま静かになっています。金山を描く映画もまた、労働の場所から、記憶の場所を描くものへと変わっています。


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