盛岡を歩く——宮沢賢治、光原社、民藝、喫茶、食文化

盛岡市街を流れる川の向こうに雪を頂いた岩手山が見える風景 料理・食文化
市街地の向こうに岩手山が立ち上がる。盛岡では自然が街の風景の一部になっている。

過去を「現在形」で使い続ける街を読む

盛岡駅を出て街を歩くと、川の向こうに岩手山が見えます。

盛岡市は地元長野県の松本市を歩いたときにも似た感覚がありました。松本では、城下町の歴史と民藝、松本民芸家具、草間彌生、そして北アルプスが、過去と現在を行き来しながら一つの街をつくっています。

今回は宮沢賢治、出版、民藝、喫茶、そして戦後につくられた食文から盛岡を見ていきたいと思います。

宮沢賢治について

宮沢賢治は、1915年、盛岡高等農林学校に入学しました。学生時代には文学活動にも取り組み、盛岡の祭りや風景を題材とした作品も残しています。盛岡は、農学を学んだ場所であると同時に、後の文学者・宮沢賢治につながる感覚が育っていった場所。

賢治は生涯に膨大な作品を書いていますが、生前に刊行された著書は意外なほど少ないです。

詩集『春と修羅』と、童話集『注文の多い料理店』。

その『注文の多い料理店』を刊行したのが、盛岡市材木町にある光原社です。

『注文の多い料理店』を出版した会社が、なぜ民藝の店になったのか

光原社を訪れる前は、「宮沢賢治ゆかりの場所」という認識がありました。ところが実際に行ってみると、単なる文学史跡ではなさそうです。

1924年、盛岡高等農林学校の後輩だった創業者・及川四郎が賢治の童話を出版し、その際に「光原社」という名前も賢治自身がつけたという。

しかし、光原社は出版だけを続けたわけではなく、南部鉄器に関わる高橋萬治、民藝運動の柳宗悦、染色家の芹沢銈介、版画家の棟方志功らとの交流を重ねながら、鉄器、漆器、陶磁器、染織、ガラスなどを扱う現在の姿へと変わっていきます。

つまり光原社は、

文学の場所でありながら、同時に工芸の場所

でもある。

宮沢賢治の名前を保存して展示するだけなら、文学館という形もあり得たはずなのに、光原社では現在も器や家具、染織品などが売られています。文学の記憶が、現在の暮らしにつながっているのです。

民藝は、見るものではなく使うもの

光原社の敷地内には、喫茶店の「可否館」があります。

コーヒーを飲んで休憩るけなら普通の喫茶店ですが、光原社が扱っている全国の手仕事の器が、可否館では実際に使われていました。

ここに民藝を見るときの重要な視点があると思います。

美術館では、美術品は展示台の上に置かれ厳重に保護されながら鑑賞されます。しかし器は本来、手に持たれ、口をつけられ、洗われ、また使われるものです。椅子も座られるためにあり、テーブルも傷がつきながら使われていきます。

民藝とは「民衆的工藝」を縮めた言葉で、柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らによって1920年代に提唱されました。その大きな特徴は、特別な美術品だけではなく、日々の暮らしの中で使われてきた無名の職人による道具に美を見出したことです。実用性、無銘性、土地との結びつき。

そして何より重要なのが、

使うことと、美しいことが分離していない。

という考え方です。いわゆる「用の美」です。

可否館では、それを説明ではなく体験として理解できます。コーヒーを飲むという日常的な行為と、工芸を見るという行為が分離せず、「見る民藝」ではなく、使われている民藝がそこにはありました。

民藝だけが「盛岡文化」ではない

盛岡を考える時に避けて通れないのが、食文化。

盛岡冷麺、じゃじゃ麺、わんこそば。いわゆる「盛岡三大麺」があります。

ただ、面白いのは名物の数ではありません。それらが、どうやって「盛岡の食べ物」になったのか。そこを調べると、先ほどの民藝とはまた違う形で、文化が土地に定着していく過程が見えてきます。

食道園と盛岡冷麺

岩手県盛岡市大通にある「元祖 平壌冷麺 食道園」は、盛岡冷麺発祥の店として知られる1954年創業の有名老舗店です。

盛岡冷麺は、何百年も前から存在する郷土料理ではなく、朝鮮半島北部から日本へ移住した食道園の青木輝人によって盛岡で生み出され、その後、店や製麺業者が改良を重ねながら現在の「盛岡冷麺」という食文化になっていきます。

初代店主が故郷の平壌冷麺をベースに改良を重ねて生み出した、盛岡冷麺の歴史が「元祖 平壌冷麺 食道園」から始まりました。注文ごとに麺を練り上げるため、抜群のコシと喉越しを楽しめます。牛肉の旨味が凝縮された濃厚なコクのあるスープが特徴です。

また、カルビなどの焼肉を注文すると生卵が付いてきます。すき焼きのようにお肉を生卵にくぐらせて食べるのが、食道園ならではの伝統的なスタイルです。

白龍とじゃじゃ麺

冷麺に続く盛岡三大麺であるじゃじゃ麺も似た歴史を持っています。

白龍」初代店主の高階貫勝が、戦前に中国東北部(旧満州)の「炸醤麺(ジャージャー麺)」を参考に始めたものが盛岡に根づきました。

中国の炸醤麺は塩気が強く平打ちの小麦麺でしたが、初代が盛岡の人々の好みに合わせて試行錯誤を重ねました。秘伝の「黒い肉味噌」には、挽き肉、シイタケ、にんにく、ゴマなど十数種類の材料がブレンドされており、日本人好みの深いコクが生み出されています。

白龍」では、食べ方にも文化があります。肉味噌、きゅうり、生姜を麺によく混ぜ、酢やラー油などで自分の味に調整する。そして麺を食べ終えた器に卵を割り、茹で汁と肉味噌を加えて「ちいたんたん」にする。

料理そのものだけではなく、どう食べるかという一連の行為まで共有されている。

これもまた、食文化の面白さだと思います。

ここで気づくのは、私たちが「伝統」と呼んでいるものの多くが、実は最初から土地に存在していたわけではないということです。

人が移動し、別の土地の文化を持ち込み、その土地の材料や味覚に合わせて変える。それを別の人が食べ、店が増えていく。それが何十年も繰り返され、いつの間にか「盛岡の味」になる。

文化とは、純粋な形で保存されるものではなく、混ざりながら土地に定着していくものなのかもしれません。

「賢治の清水」で打つ蕎麦

盛岡三大麺の残る一つは、わんこそば。

こちらは次に盛岡へ来る機会に改めて挑戦するとして、今回は手打ちそばの名店である「蕎麦喰い処 やまや」を訪れました。地元の人や観光客から絶大な人気を集める名店です。

やまやでは、そばの実の挽き方や種類の異なる3つの麺(挽き包み、さらしな、だったん)から好みに合わせて選ぶことができ、それぞれの風味やのど越しの違いを1枚ずつ食べ比べできるのが大きな特徴です

店の裏手には「賢治の清水」と呼ばれる井戸水があり、宮沢賢治が盛岡高等農林学校在学中に使用していたと伝えられる水を、蕎麦打ちに使っていると紹介されています。

ここで再び、宮沢賢治が盛岡の街に戻ってきます。

文学、光原社、民藝、食。

別々に見えていたものが、少しずつつながっていきます。

中津川と盛岡の喫茶文化

盛岡城跡公園には、宮沢賢治の詩碑があります。

刻まれているのは、賢治が亡くなる約一カ月前、1933年8月22日の日付を持つ文語詩です。詩碑そのものは1970年に建立されました。

蔦に覆われた小さな建物。

詩碑から中津川を渡った紺屋町にあるのが「喫茶ふかくさ」です。

窓の向こうには中津川が流れ、サイフォン式で淹れたコーヒーを飲むことができます。盛岡の公式まち歩きサイトでも、街歩きの途中で立ち寄る喫茶店として紹介されています。

盛岡には、喫茶店で時間を過ごす文化があります。

数字から見ても興味深く、総務省の家計調査をもとにした2019〜2021年平均では、都道府県庁所在地・政令指定都市52都市のうち、盛岡市はコーヒーの年間支出額7位、購入数量4位でした。

さらに2023年、ニューヨーク・タイムズ紙の「52 Places to Go in 2023」に盛岡が選ばれた際にも、歩いて楽しめる街並みや建築、わんこそばと並んで、コーヒー店の存在が盛岡の魅力として紹介されています。

光原社の可否館と、川沿いのふかくさ。

雰囲気は違っても、どちらも「コーヒーを飲むためだけの場所」ではありません。少し時間を止めて、街を眺める場所でもあります。

こうした場所が残っていることも、盛岡の文化を考える手がかりになります。

1948年から続く福田パン

もう一つ、盛岡の日常を象徴するのが「福田パン」です。

1948年に店を構えて以来、コッペパンを学校内の売店やスーパーなどでも販売し、盛岡市民に長く親しまれてきました。

盛岡市も2018年度の「もりおか暮らし物語賞」で、福田パンが盛岡の食文化を広げ、市民の郷土愛の醸成に寄与してきたとして表彰しています。

江戸時代から続く老舗だから文化なのではありません。戦後に生まれた一軒のパン屋が、何十年も街の人に食べられ続ければ、それもまた街の記憶になります。

「伝統文化」という言葉から、寺社、工芸、古い建築だけを想像していると、この部分を見落としてしまいます。

日常の中で何度も繰り返されてきたものもまた、その街の文化です。

映画『銀河鉄道の父』から、宮沢賢治をもう一度見る

盛岡をさらに楽しめるようになるのが、実話ベースの映画『銀河鉄道の父』。門井慶喜による第158回直木賞受賞作を、成島出監督が2023年に映画化した作品。

主人公は宮沢賢治本人ではなく、父・宮沢政次郎です。政次郎を役所広司、賢治を菅田将暉が演じています。

文学史では、どうしても「作家・宮沢賢治」という完成された人物から逆算してしまいますが、当然ながら、賢治も最初から「宮沢賢治」だったわけではありません。学校へ通い、家族と衝突し、仕事をし、創作を続けながら、ほとんど作品が売れない時期を生きています。

映画を見ると、『注文の多い料理店』という一冊の本も、教科書の中の文学作品ではなく、出版社があり、出版を決めた人がいて、売れなかった本があり、それでも後世まで残ったことが分かります。

⭐︎百名店 可否館 食道園

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