なぜヨウジヤマモトの服は「大きい」のに成立するのか
山本耀司氏(以下敬称略)の服を見ると、まず目につくのは身体と服のあいだに残された大きな空間です。肩幅は広く、身幅にはゆとりがあり、パンツにも十分な分量があります。しかし、単純な「大きな服」には見えません。
布の重さによって生まれる落ち方、歩いたときの揺れ、身体から離れたところにできるシルエットまで含めて設計されています。
以前、服装史についてまとめた際、私はヨウジヤマモトの特徴を二つの言葉でメモしていました。
「量感と落ち感」
今回は山本耀司の著書『服を作る──モードを超えて』を読みながら、この二つの言葉を改めて考えてみます。
オートクチュールからプレタポルテへ
ヨウジヤマモトを考える前に、まず20世紀の洋服がどのように変化したのかを簡単に整理しておく必要があります。
オートクチュールでは、基本的に特定の顧客の身体に合わせて服を作ります。身体を採寸し、その身体がより美しく見えるように布を裁ち、立体を構成していきます。
一方、プレタポルテは既製服です。S、M、Lといった規格化されたサイズがあり、個人の身体が服の規格に合わせることになります。
ここには大きな違いがあります。
身体に服を合わせるのか。
服と身体のあいだに、別の関係を作るのか。
1980年代にパリで注目を集めた日本人デザイナーたちは、この後者を大きく押し広げました。
1980年代、日本人デザイナーが持ち込んだもの
1980年代初頭、川久保玲、山本耀司、三宅一生ら日本人デザイナーの仕事は、それまでの西洋ファッションとは異なる身体観を示しました。
私が服装史のメモで整理していた特徴は、
無彩色
オーバーサイズ
非対称性
日本製の素材
です。
もちろん三者の服作りは同じではありません。川久保玲については、既存の洋服のカテゴリーそのものから外れようとする造形。三宅一生については、平面と立体のあいだに生まれる空間と、衣服をプロダクトとして考える姿勢。
そして山本耀司については、
量感と落ち感
という言葉で整理していました。
ヨウジヤマモトのオーバーサイズは、単にサイズを大きくすることとは違います。布を多く使い、その布が重力によって落ちることで、身体の輪郭とは別の輪郭を作ります。そのため、ハンガーに掛かっている状態と、人が着て歩いている状態では印象がかなり変わります。
服単体ではなく、身体、布、重力、動きの関係を見る必要がある服です。
なぜ身体を強調しないのか
西洋服飾史では、長いあいだ服によって身体の形を整える試みが繰り返されてきました。
女性服ではコルセットやクリノリン、男性服では肩や胸を構築するテーラリングなど、服によって理想の身体像を作ってきた歴史があります。20世紀後半になっても、身体に沿ったカッティングや、身体を魅力的に見せることはファッションの重要な要素でした。
その流れの中で見ると、ヨウジヤマモトの服は少し違って見えます。身体を露出させるのではなく、むしろ覆います。身体の輪郭をそのまま見せるのではなく、その周囲に布で包みます。
そこで重要になるのが「量感」です。
ジャケットの身幅、長い着丈、太いパンツ、重なる布。身体そのものを見せる代わりに、衣服が作るシルエットを見せています。
そして、そこに「落ち感」が加わります。
柔らかな布が肩から落ち、身体の動きによって形を変えることで、静止した彫刻のような服とは異なる表情が生まれます。
『服を作る』で語られるファッション

『服を作る──モードを超えて』は、山本耀司の生い立ちから2013年頃までを本人の証言を中心にまとめた本です。コレクションの写真だけでは分からない、服を作る側の考え方を知ることができます。
本書の中で山本耀司は、ファッションを単なる衣料品ではなく、言葉で表現できないものを形にする表現として捉えています。この考え方を知ったうえでコレクションを見ると、服の奇抜さだけを追う必要がないことが分かります。
例えば、大きなジャケットなら、
「なぜ大きいのか」
ではなく、
「身体からどの程度離しているのか」
黒い服なら、
「なぜ黒なのか」
だけではなく、
「色を抑えることで、布の分量や形がどう見えるのか」
を見てみる。
こうした見方をすると、コレクション写真から拾える情報が増えていきます。
2014年、パリで実際にコレクションを見る


2014年6月26日、パリで行われたヨウジヤマモトのメンズコレクションを見る機会がありました。
今回、当時撮影した写真を見直してみました。本書で提示された「量感と落ち感」という考え方が、一つの様式として固定されているわけではないことです。
ジャケット、ロングシャツ、太いパンツ、スカーフ、帽子、レイヤード。
一見すると異なるアイテムが並んでいますが、身体に密着させず、その周囲に布の空間を作る方法は共通しています。
特にジャケットを見ると分かりやすいです。一般的なテーラードジャケットでは、肩、胸、ウエストによって身体の輪郭を整理します。
一方、このコレクションでは、ジャケットの内部に身体を収めながらも、必ずしも身体のラインを強調していません。パンツにも十分な分量があります。歩くたびに布が動くため、正面から撮った一枚だけでは服の形を完全には把握できません。これは実際のショーを見ることで分かりやすかった点です。
ランウェイでは、服は常に動いています。
写真で見るべきなのは「服そのもの」だけではありません
ショーの写真は、完成したルックの記録であると同時に、服がどのような環境で提示されたかを記録しています。会場の広さ、観客との距離、照明、モデルの歩く速度。
ファッションショーは服を並べるだけの場所ではなく、服をどの位置から、どの速度で、どのような空間の中で見せるのかまで含めて一つのプレゼンテーションになっています。
現在ではオンライン上でルック画像を見ることが簡単になりましたが、ランウェイ写真を見るときは、服だけを切り抜いて見るのではなく、
モデル 動き 空間 観客との距離
まで見てみると、そのコレクションを深く理解できると思います。
なぜヨウジヤマモトは、招待状に『東京物語』を使ったのか


招待状の表面には、小津安二郎監督の映画『東京物語』(1953)のスチール写真が使われています。
当時はショーを見ること自体に夢中でしたが、今になってこの招待状とコレクションを並べてみると、『東京物語』が選ばれた意味がかなり気になってきます。
『東京物語』は、尾道で暮らす老夫婦が東京に住む子どもたちを訪ねる物語です。
しかし、東京で生活する子どもたちは仕事や日常に追われ、両親とゆっくり過ごすことができません。血のつながった子どもたちよりも、戦死した次男の妻・紀子が老夫婦を気遣います。
ここで小津が描いているのは、「親不孝な子どもたち」の話ではありません。戦後の日本で、地方から都市へ人が移動し、仕事を中心とした生活が形成され、それまでの家族の構造が少しずつ変化していく。そのなかで、誰かが明確に悪いわけではないのに、人と人との間に距離が生まれてしまいます。
小津自身も『東京物語』について、親と子の成長を通して日本の家族制度が崩れていく様子を描いた、という趣旨の説明を残しています。
つまり『東京物語』で失われていくものは、「ひとりの人間」ではありません。家族のかたち、時間の共有、世代間の関係、そして、それまで当たり前だと思われていた生活の仕組みそのものです。
この映画を入口にすると、Yohji Yamamoto 2015年春夏メンズコレクションに繰り返し現れる「失われるもの」というモチーフが、少し違って見えてきます。
「PERDU」──失われたものを探す服
このシーズンの終盤には、街角の迷子ポスターを思わせるグラフィックが登場します。猫や犬の写真とともに「MISSING CAT」のようなメッセージが付けられ、さらにその中には山本耀司本人の写真まで登場します。
そこに書かれていた言葉が、
「PERDU」
です。
フランス語で「失われた」「行方不明の」という意味を持つ言葉です。
Vogueも当時のレビューで、ショーの最後に「失われた猫」「失われた犬」、そして最終的には「失われたYohji」を示すルックが登場したことを記録しています。山本耀司自身についてのユーモアを含みながら、コレクション全体を貫く「失われる」という感覚を象徴する演出だったことが分かります。
家族のかたちが静かに失われていく映画と、失われた猫、犬、そしてYohji自身を探す服。
「壊れた服」ではなく、「時間を持った服」



2015年春夏のルックを改めて見ると、整ったスーツだけで構成されたコレクションではありません。
ピンストライプの生地を切り抜いて別のジャケットに縫い付けたようなアップリケ、部分的に切り替えられたジャケット、多数のボタン、使い込まれたような表情の生地、デニム、バンダナ、ワイドパンツなどが混在しています。ジャケットを分断するような構成やパッチ、ダブルデニムなど、山本耀司が長く扱ってきたデコンストラクションの延長に見えます。
一見するとグランジ的です。
しかし重要なのは、「汚れている」「破れている」という表面的なスタイルではなく、完成されたものを一度崩し、別の関係を作り直していることではないでしょうか。
例えばテーラードジャケットは、本来であれば左右が整い、襟、袖、ポケットが一定の秩序のもとに配置されています。そこに別の素材を切って入れて、塞ぐと服は、単なるジャケットではなくなります。
「以前はどういう姿だったのか」「なぜここだけ素材が違うのか」「何を直したのか」という疑問が発生します。新品なのに、過去を持っているように見えるのです。
この見方をすると、『東京物語』と服が少しずつ近づいてきます。小津も大事件を描くことで「失うこと」を表現したわけではなく、家族の日常生活を描きます。それでも、その生活の中で何かが以前とは違ってしまっている。
山本耀司の服にも似た構造があります。ジャケットはジャケットのままです。シャツも、パンツも、スーツも形としては消えてはいません。しかし、よく見ると本来の秩序から少しずれています。その「ずれ」に時間や記憶を感じさせるところが、このコレクションの面白さだと思います。
「MADE IN JAPAN NO.1」は何を意味していたのか
そして、このシーズンにはもうひとつ重要な言葉があります。
「MADE IN JAPAN NO.1」
です。
Fashion Pressは、『東京物語』『PERDU』とこの言葉を結びつけ、日本のものづくりが失われていくことへの意識としてこのコレクションを読んでいます。
ここは断定せずに見ておきたい部分ですが、少なくとも「PERDU」と「MADE IN JAPAN」という二つの言葉が同じコレクションの中に置かれていることは重要です。
山本耀司は長年、日本の縫製、素材、生地、職人の技術を使いながら、パリという国際的なモードの舞台で服を発表してきました。
1981年のパリコレクション以来、山本耀司の仕事は、単に「日本的なものを海外に紹介する」ことではありませんでした。西洋のテーラリング、身体の見せ方、美しさ、完成という概念そのものを、日本で作られた服によって問い直してきた歴史でもあります。
だからこそ「MADE IN JAPAN」は、生産国を記した品質表示以上の意味を持ちます。その技術や価値が永久に存在するとは限らない。失われる可能性があるからこそ、あえて服の上に言葉として残す。
そう読むと、「PERDU」と「MADE IN JAPAN NO.1」は離れたモチーフではなくなります。
『東京物語』から「服を作る」ということを考える



山本耀司は『服を作る―モードを超えて』の中で、ファッションを言葉だけでは表現できないものを形にする表現として語っています。
2015年春夏コレクションを見ると、その意味が少し分かってきます。
「家族は変わっていく」
「人は別れる」
「技術は失われる」
「自分自身さえ、いつかいなくなる」
こうしたことを説明文として服に印刷するだけなら、ファッションである必要はありません。
しかし山本耀司は、それをシルエット、生地、穴、継ぎ、写真、文字、スタイリング、音楽、モデル、空間まで含めた一つの体験として提示します。
だからファッションショーは、単なる「来季の商品発表会」ではありません。少なくとも山本耀司の仕事を見ると、服を使って一つの考え方を構築することができると分かります。
私が2014年にその会場で見ていたものも、当時は目の前を歩いていく服としてしか理解できていなかった部分があります。
しかし10年以上経って本を読み直し、招待状を見返し、『東京物語』とコレクションを並べてみると、一着の服の後ろに映画、戦後日本、家族、ものづくり、記憶といった複数の文脈が重なっていることが分かります。
ファッションを見る面白さは、ここにあるのかもしれません。
「格好いいか、格好悪いか」で終わらせず、
なぜこの素材なのか。
なぜこの形なのか。
なぜこの言葉なのか。
なぜこの映画なのか。
そこまで遡っていくと、服は時代を読むための資料になります。
手元の服から分かること



私はこのコレクションで発表されたジャケットとレザーパンツも所有しています。写真で見た服を実物で確認すると、ランウェイ写真だけでは分からなかった情報が出てきます。
例えばレザーパンツには複数のボタンが配置され、一般的な革パンツとは異なるディテールが使われています。ジャケットにもレザーが部分的に組み合わされています。
異素材をどこに置くのか、ボタンをどの位置に増やすのか、身体のどの部分に視線を集めるのか。服はこうした小さな選択の積み重ねでできているのではないでしょうか。
コレクション全体を見る。ランウェイで動いている状態を見る。最後に実物の縫製や素材を見る。
この三つを行き来すると、一着の服から得られる楽しみが増えてきます。
山本耀司の服を見るときに覚えておきたい二つの言葉
ヨウジヤマモトについて調べると、「黒」「反モード」「オーバーサイズ」といった言葉がよく出てきます。もちろんそれらはファッション史的に重要です。
ただ、実際の服を見るときには、
量感と落ち感
という二つの言葉を覚えておくといいかもしれません。
どれくらいの布を使っているのか。
身体からどれくらい離れているのか。
その布が重力によってどのように落ちているのか。
歩いたときにどこが動くのか。
『服を作る』と2014年のコレクション写真を並べて見直したことで、改めてそのことを確認できました。

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