Exploring Creativity from David Byrne's "The Function of Music"

音楽のはたらき Book reviews and reading
音楽のはたらき

——Talking Heads、ラウシェンバーグ、映画をつなぐもの

積読してあったTalking Headsのデヴィッド・バーンによる『音楽のはたらき』を読んだ。

楽曲制作についての本だと思っていたら、これが想像以上に面白かった。

書かれているのは「良い曲をどう作るか」だけではない。

音楽はどこから生まれるのか。
テクノロジーは創作をどう変えるのか。
人はどうやって音楽を発見するのか。
オリジナルとは何なのか。
作品はどう流通し、どうお金になるのか。
そして、創作が継続的に生まれる「シーン」はどう形成されるのか。

読み進めていくと、音楽論というより、一人の表現者による「創造を取り巻くシステム論」のように思えてくる。

そして僕にとって面白かったのは、この本を読んだことで、これまで別々に興味を持っていた現代美術、音楽、映画、デザインが一本の線でつながったことだった。

Talking Headsを「音楽」から知ったわけではない

Talking Headsを知った入口は、実は音楽ではな買った。

それは、ロバート・ラウシェンバーグだった。

ラウシェンバーグは、絵画、写真、印刷物、布、日用品など、既存のカテゴリーを横断しながら作品を作った20世紀美術を代表するアーティストの一人だ。

十数年前、彼がTalking Headsのアルバム『Speaking in Tongues』のアートワークを手がけていることを知った。

ラウシェン・バーグのアートワーク
ラウシェン・バーグ

「ラウシェンバーグが関わったTalking Headsとは、どんなバンドなんだろう?」

そこから興味は、現代美術から音楽へと伸びていった。

この『Speaking in Tongues』の限定版は、一般的なレコードジャケットとはかなり違う。

透明な素材を使い、複数のイメージを重ね合わせる特殊なパッケージそのものが一つの作品になっている。

ラウシェンバーグはこの仕事でグラミー賞のBest Recording Packageを受賞している。

現在このLPを所有しているが、いまだにアウタースリーブを開けられずにいる。

考えてみれば、この時点ですでに面白い。

「美術作品を見る」という行為と「音楽を聴く」という行為の境界が曖昧になっているからだ。

そして、この感覚はデヴィッド・バーン自身の創作観とも奇妙なほど重なっていた。

創造は「内面」から生まれるとは限らない

『音楽のはたらき』で特に面白かった考え方の一つが、「逆からの創造」だ。

創作というと、僕たちはつい次のような順番を想像する。

作者の内面

作品

作品を発表する場所

まずアーティストの中に何か表現したいものがあり、それが作品になり、完成してから発表する場所を探す。

非常に馴染みのある創作観だと思う。

ところがバーンは、逆方向からも創作を見る。

どんな場所で演奏されるのか。
どんな技術が存在するのか。
誰が聴いているのか。
どんな社会や文化の中にいるのか。

そうした「環境」が先に存在し、音楽の方がそこへ適応するように形を変えてきたのではないか。

In other words,

環境

制約

作品

という方向から創造を見る。

たとえば残響の長い大聖堂と、小さなライブハウスでは、そこで効果的に響く音楽は当然違ってくる。

空間が変われば音楽も変わる。

録音技術が変われば音楽も変わる。

聴衆が変われば音楽も変わる。

創作者の頭の中だけを見ていては、作品がなぜその形になったのかを完全には説明できない。

この考え方は音楽に限った話ではないと思う。

「正確な作品」と「良い作品」は同じなのか

『音楽のはたらき』には、デジタル録音についても興味深い話が出てくる。

現在のソフトウェアを使えば、演奏のズレやテンポの揺れをかなり細かく修正できる。

音をグリッドへ合わせれば、「正確な演奏」を作ることができる。

しかし、バーンはそこで失われるものにも目を向ける。

人間の演奏に存在する微妙な揺れやズレまで取り除いてしまったら、それは本当に良い音楽になるのだろうか。

ここから考えられるのは、

技術によって「正しくする」ことと、「良くする」ことは同じではない

という問題だ。

技術は完成度を高めてくれる。

しかし同時に、人間が作ったもの特有の揺らぎまで消してしまう可能性もある。

AIによって多くの創作行為を補助できるようになった現在、この問いはさらに重要になっているように思う。

情報が無限になった時代に「選ぶこと」が価値になる

個人的に最も考えさせられた章の一つが「キュレーションの力」だった。

かつて音楽を聴くには、アクセスそのものにコストがかかった。

レコード店へ行く。

ラジオを聴く。

音楽雑誌を読む。

詳しい友人から教えてもらう。

ところが現在はSpotifyやYouTubeを開けば、膨大な音楽へ瞬時にアクセスできる。

映画も同じ。

本も同じ。

服もアートも同じだ。

すると問題は、

「どうやって手に入れるか?」

から、

「無限の選択肢から何を選ぶか?」

へ移動する。

これはかなり大きな変化だと思う。

情報が希少だった時代には、「知っていること」自体が価値になった。

しかし何でも検索できる時代には、

「これは面白い」

「これは見る価値がある」

「この二つは、一見関係なさそうだけれど実はつながっている」

と選び、そこに文脈を与えること自体が価値になる。

知識を大量に所有するだけではなく、

知識と知識の間に線を引く。

僕はこれも一種の創造なのではないかと思う。

デヴィッド・バーンを追うと映画へたどり着く

そしてバーンを追いかけていると、今度は映画へ線が伸びる。

ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』(1987)。

映画「ラスト・エンペラー」ー
映画「ラスト・エンペラー」

この映画の音楽といえば坂本龍一を思い浮かべる人が多いと思う。

しかし作曲を担当したのは坂本龍一だけではない。

デヴィッド・バーンと蘇聡も参加し、3人は揃ってアカデミー作曲賞を受賞している。

Talking Headsと『ラストエンペラー』。

一見かなり離れて見える二つの文化が、デヴィッド・バーンという人物を介してつながる。

さらにバーンの舞台『American Utopia』は、後にスパイク・リーによって映画化された。

映画「アメリカン・ユートピア」
映画「アメリカン・ユートピア」

そしてTalking Headsそのものにも、ジョナサン・デミ監督による『Stop Making Sense』というコンサート映画がある。

音楽。

現代美術。

映画。

舞台。

デザイン。

バーンを追っていると、それらを別々のジャンルとして分類すること自体が、だんだん意味を失ってくる。

『Stop Making Sense』は「逆からの創造」を映像化したような映画でもある

この文脈で『Stop Making Sense』を見るのも面白い。

映画は、デヴィッド・バーンがほぼ何もない舞台へ一人で現れるところから始まる。

そして演奏が進むにつれて、メンバーや楽器、舞台装置が加わり、ステージそのものが少しずつ完成していく。

つまり観客は完成したショーだけを見るのではなく、音楽を成立させる環境そのものが組み上がっていく過程を見ることになる。

有名な巨大なスーツも含めて、身体、衣装、照明、舞台、演奏が切り離されていない。

音楽を「音」だけとして提示するのではなく、

空間の中で人間がどう見え、どう動き、どう聞こえるか

まで含めて一つの作品として設計されている。

『音楽のはたらき』を読んだ後に見ると、デヴィッド・バーンが書いている創作論と、実際に彼が作ってきた作品がかなり近い場所にあることに気づく。

作品ではなく「作品を生み出すシステム」を見る

『音楽のはたらき』を読み終えて残ったのは、音楽についての知識だけではなかった。

作品を見るとき、

「これは誰が作ったのか?」

だけでなく、

「なぜ、この時代、この場所、この技術、この人間関係から、この作品が生まれたのか?」

と考える。

作者だけを見るのではなく、作者を取り巻くシステムを見る。

そして自分が何かを作るときにも、

「自分は何を表現したいのか?」

だけではなく、

「自分はどんな環境の中で作っているのか?」

「誰に、どこで、どう経験されるのか?」

まで考えてみる。

すると創作は、孤独な天才が頭の中から何かを取り出す行為とは少し違って見えてくる。

知識と知識の間に一本の線を引く

今回、僕は一冊の本を読んだ。

でもそこから、

ラウシェンバーグ。

Talking Heads。

サンプリング。

CBGB。

『ラストエンペラー』。

坂本龍一。

『Stop Making Sense』。

スパイク・リー。

一つ一つを独立したジャンルとして見れば、別々の話だ。

しかし、その間に一本の線を引いてみると、急に世界が立体的になる。

だから最近は、知識を増やすこと以上に、

知識と知識の間に線を引くこと

に面白さを感じている。

完全な無から何かを生み出すことだけが創造ではない。

別々だと思っていたものをつなぐ。

既に存在するものを別の場所へ置く。

違う文脈から見直してみる。

ラウシェンバーグのコラージュも、

音楽のサンプリングも、

デヴィッド・バーンのジャンルを横断する活動も、

その意味ではどこかでつながっている。

僕自身がTalking Headsを知ったのも、一枚のレコードジャケットがきっかけだった。

一つの作品から、もう一本だけ線を伸ばしてみる。

その先に、今まで知らなかった映画や音楽や本やアートがある。

そう考えると、一枚のレコードからでも世界はかなり遠くまでつながっていく。

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