- 茶の湯と近代建築をめぐる一日
- なぜ高橋是清邸を選んだのか
- 茶席を一つにしたから、建物を全部見ることができた
- 西川家別邸——製糸業が生んだ大正期の接客空間
- 吉野家——農家なのに「格式」が見える理由
- 万徳旅館——旅人が泊まった場所
- 天明家——村の旧家が持つ建築的な権威
- 綱島家——茶席から、思いがけず「国分寺崖線」へつながる
- 伊達家の門——野点の背景そのものが建築になる
- 鍵屋——鶯谷で飲んだ老舗酒場、その旧店舗に再会する
- 田園調布の家(大川邸)——「郊外住宅」という新しい暮らし
- 三井八郎右衞門邸——一つの住宅の中に違う時代が入っている
- デ・ラランデ邸——歴史建築の中で普通にコーヒーを飲める
- 東京大神宮の献茶式とは、まったく違う茶会だった
- そして、はけの森美術館へ
- 旧中村研一邸が、そのままカフェになっている
- 「はけ」とは何なのか
茶の湯と近代建築をめぐる一日



2026年10月25日、江戸東京たてもの園で開催された「東京大茶会2026」へ行ってきました。
東京大茶会は、東京都と東京都歴史文化財団が開催する大規模な茶会です。特定の一流派による茶会ではなく、さまざまな流派が参加し、茶道経験のない人や外国人、子供まで広く茶文化に触れられるように企画されています。
今年の江戸東京たてもの園会場では、高橋是清邸、西川家別邸、万徳旅館、吉野家の4棟で通常の茶席が設けられたほか、天明家では子供向け茶席、綱島家では英語による茶席、伊達家の門では野点が行われました。
参加料は通常の茶席が一席800円。
そして2026年から大きく変わったのが参加方法です。これまでの事前申込ではなく、すべての茶席・野点が当日販売になりました。実際に参加してみると、ここがなかなか大変でした。
チケットを買うまで約1時間。その待ち時間には、城山三郎の『気張る男』を読んでいました。主人公は、“西の渋沢栄一”とも呼ばれた実業家・松本重太郎。銀行、鉄道、紡績、ビールなど、明治日本の近代産業を次々に立ち上げ、関西財界の中心人物となった人物でした。
園内では、製糸業で財を成した西川家の別邸を見て、三井家の邸宅へ入り、大正期の田園調布に建てられた近代住宅を見ることになります。小説では、明治の実業家たちが産業を作っていきます。
ようやく購入できた茶席の開始時刻はそこからさらに1時間でした。場合によっては2時間以上先になった可能性も。
複数の席を回ることもできまずが、一席ごとに待ち時間を使うとなると、一日がほとんど茶席待ちで終わってしまいます。結局、高橋是清邸の一席だけにしました。結果として、それで十分だったと思っています。
なぜ高橋是清邸を選んだのか



江戸東京たてもの園で一席だけ選ぶなら、最初から高橋是清邸が一番面白いと思っていました。高橋是清邸は1902年、明治35年に建てられた住宅です。
もともとは現在の港区赤坂七丁目にあり、明治から昭和初期にかけて日本の政治と財政の中枢にいた高橋是清の住まいでした。
建物は総栂普請(そうつがぶしん)。食堂には寄木張りの床が使われています。庭も赤坂時代の姿の一部が復元され、組井筒から水を流し、雪見灯籠などを配した構成になっています。高橋是清自身、庭を散歩したり、芝生で日光浴したりすることを好んでいたそうです。
2階には、高橋是清が書斎や寝室として使っていた部屋があります。
そして1936年2月26日。
この家は二・二六事件の現場になりました。
二・二六事件では、陸軍の青年将校らが約1,400人の兵を率いて首相官邸などを襲撃しました。
内大臣の斎藤実、大蔵大臣の高橋是清、陸軍教育総監の渡辺錠太郎が殺害され、東京中心部の一部が反乱軍によって占拠されました。
当時大蔵大臣だった高橋是清は、この赤坂の自邸で襲撃され、命を落としています。
高橋是清という人物は、日本銀行総裁、内閣総理大臣を経験し、何度も大蔵大臣を務めた財政家です。日露戦争では外債募集のため欧米を回り、戦費調達に大きな役割を果たしました。
昭和恐慌後には、のちに「高橋財政」と呼ばれる積極的な財政政策を展開します。一方、晩年には軍事費の膨張を抑えようとして軍部と対立し、その最中に二・二六事件で暗殺されました。
今日座った部屋は、政治家が実際に暮らし、食事をし、庭を眺め、そして日本近代史の大きな事件を経験した生活空間です。そこで一服の茶をいただきました。
茶室を構成するのは道具だけでなく、建物そのもの、庭、光、窓から見える景色、そしてその場所に蓄積された歴史までが、その一席に入ってくるのだと思います。






茶席を一つにしたから、建物を全部見ることができた






江戸東京たてもの園は、現地保存が難しくなった江戸時代から昭和中期までの文化的価値の高い建築を移築・復元する野外博物館です。現在、30棟の復元建造物があります。
農家、商家、旅館、写真館、銭湯、政治家の邸宅、実業家の邸宅、近代の郊外住宅など多種多様な建築物があることがわかります。この日は見学できる建物にはひと通り入りました。
西川家別邸——製糸業が生んだ大正期の接客空間



高橋是清邸の隣にある西川家別邸は、1922年、大正11年の建築です。ここも茶席がかかりました。北多摩屈指の製糸会社を設立した実業家・西川伊左衛門が、隠居所兼接客用として建てました。
大正から昭和初期は、多摩地域の養蚕・製糸業が最盛期を迎えていた時代でした。西川家別邸には吟味された部材が使われており、隠居所というより、製糸業によって蓄積された富と、来客を迎えるための空間が住宅として表現されています。
吉野家——農家なのに「格式」が見える理由



吉野家は江戸時代後期に建てられた農家です。旧所在地は現在の三鷹市野崎。吉野家は江戸時代、野崎村の名主役を務めた家といわれています。
そのため、普通の「昔の農家」と見ると少し違います。式台付きの玄関を持ち、奥座敷には付書院が設けられています。式台は来客を正式に迎えるための設備です。住宅の中に、村落社会における吉野家の地位がそのまま建築として現れています。
万徳旅館——旅人が泊まった場所



さらに性格が違うのが万徳旅館です。江戸時代末期から明治時代初期にかけて、青梅街道沿いに建てられた旅館でした。富山の薬売りをはじめとする行商人が多く利用していたといいます。
現在の室内は、旅館として営業していた1950年頃の姿が復元されています。人が街道を移動し、一晩泊まり、また次の土地へ向かっていくための場所です。玄関から客室へ上がり、荷物を置き、食事をし、眠る。そうした移動の途中に存在した商業空間が茶席になっていました。
天明家——村の旧家が持つ建築的な権威



子供向け茶席の会場になっていた天明家も面白い建物でした。18世紀後半に建てられた農家で、旧所在地は現在の大田区鵜の木です。
天明家は江戸時代、鵜ノ木村で重職を務めた旧家でした。正面に千鳥破風を持つ主屋、長屋門、さらに枯山水庭園まで備えています。
村落社会の中には当然、身分や役割の違いがあり、それが玄関、門、座敷、庭といった建築へ現れます。
子供が初めて茶文化に触れる会場として、こうした歴史的な農家が使われているというのも東京大茶会らしい構成でした。
綱島家——茶席から、思いがけず「国分寺崖線」へつながる



英語茶席の会場だった綱島家は、江戸時代中期の茅葺き民家です。旧所在地は世田谷区岡本三丁目。
広間型の古い間取りを持ち、広間と土間の境には長方形断面の大黒柱、室内には「オシイタ」と呼ばれる古い形式の板が残されています。
この建物について調べていて、さらに面白いことが分かりました。綱島家がもともと建っていた世田谷区岡本は、国分寺崖線上にあります。多摩川を見下ろす崖線上に建っていた農家でした。
この時点ではまだ気づいていませんでしたが、この日の午後に訪れる「はけの森美術館」もまた、国分寺崖線の上にあります。
伊達家の門——野点の背景そのものが建築になる



野点が行われていたのは伊達家の門の前でした。これは大正時代、旧宇和島藩伊達家が東京の白金に建てた屋敷の表門です。
総欅造りで、門柱上部の冠木には宇和島藩伊達家の家紋が木彫りされています。屋根には緩やかに膨らむ「起り屋根」が使われ、片側には番所を備えています。
明治維新によって大名屋敷という制度そのものは消えても、その建築語彙は近代の華族邸宅にも残りました。茶室、住宅、農家、旅館とはまた違い、野点では建築は箱物ではなく景観になります。
鍵屋——鶯谷で飲んだ老舗酒場、その旧店舗に再会する



園内を歩いていて、個人的にかなり嬉しかったのが「鍵屋」でした。
鍵屋は1856年、安政3年に酒屋として創業し、1949年から居酒屋として営業する、東京でも最古級の老舗酒場です。現在も鶯谷・根岸で営業していて、以前何度かお邪魔している名店です。
しかも鍵屋には、今でも独特のしきたりが残っています。女性だけでの入店はできず、女性客は男性同伴でなければ入れません。現代の東京に残る、かなり珍しい「女人禁制」の酒場です。このルール自体が、現在の飲食店としてはかなり異例です。
そして江戸東京たてもの園に保存されているのは、その前に使われていた旧店舗です。鍵屋のおすすめはなんと言ってもくりから焼き(鰻の串焼き)です。数量限定ですぐ売れ切れてしまう人気おつまみです。
田園調布の家(大川邸)——「郊外住宅」という新しい暮らし






田園調布の家「大川邸」も印象的な建物でした。
1925年、大正14年に田園調布に建てられました。当時の田園調布は、都市中心部から少し離れた場所に計画的に開発された新しい郊外住宅地です。大川邸も、その新しい生活像をよく表しています。
居間を中心として食堂、寝室、書斎を配置し、当時としては珍しく全室が洋間。設計は三井道男で、屋根は和風の寄棟造でありながら、外壁には洋風の下見板張りを採用し、南側にはパーゴラを備えています。
さらに興味深いのは、当時としては珍しいツーバイフォー工法が使われ、建材もアメリカから輸入されたという点です。ここには政治家や財閥の巨大な邸宅とは違う、大正期に生まれつつあった近代的な郊外生活があります。
三井八郎右衞門邸——一つの住宅の中に違う時代が入っている









もう一つ印象に残ったのが、三井八郎右衞門邸でした。一見すると豪華な邸宅なのですが、建築年代を調べると少し変わっています。
現在の主屋は1952年、昭和27年に港区西麻布に建てられたものです。ところが客間と食堂部分は、1897年頃に京都に建てられ、戦後に東京へ移築されたもの。さらに土蔵は1874年、明治7年の建築です。
つまり、一軒の住宅の中に明治初期、明治後期、戦後という複数の時間が内包されていました。入室が禁止されていた茶室がとても良かったです。
デ・ラランデ邸——歴史建築の中で普通にコーヒーを飲める



西ゾーンにあるデ・ラランデ邸は、現在「武蔵野茶房」というカフェとして使われています。もともとは平屋の洋館でしたが、1910年頃、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデによって3階建てへ大規模に増築されました。1956年からは、カルピスの生みの親として知られる三島海雲が暮らしています。
東京大神宮の献茶式とは、まったく違う茶会だった
二日前には、東京大神宮の献茶式にも参加しました。こちらは同じ「茶」でも性格がまったく違います。献茶式では、神前へ茶を献じるという宗教的な儀礼が中心にあります。
一方、東京大茶会は、複数の流派が集まり、初心者や外国人を含む幅広い人に茶文化を開いていく大規模な文化イベントです。
社中の稽古があり、献茶式があり、大寄せの茶会があり、今回のような公共文化事業としての茶会があります。
一年の中でそれぞれを経験すると、「茶道」と一括りにしていたものにも、かなり異なる社会との接続の仕方があることが分かりました。
そして、はけの森美術館へ






江戸東京たてもの園を出た後、武蔵小金井駅へ戻りました。まだ時間があったので、そのまま小金井市立はけの森美術館へ向かいました。
はけの森美術館は、洋画家・中村研一が戦後に移り住み、晩年まで暮らした場所にあります。現在の美術館だけでなく、中村夫妻が実際に暮らした旧中村研一邸、茶室「花侵庵」、そして庭だった「美術の森緑地」までが一つのまとまりとして残されています。旧宅と花侵庵は建築家・佐藤秀三の設計によるもので、国登録有形文化財です。
しかも、中村研一は絵だけではなく、日記には、茶碗を眺めたり、茶器を楽しんだり、喫茶したりする記述が残っているそうです。花侵庵も、中村と佐藤秀三が相談しながら建てたと伝えられています。
旧中村研一邸が、そのままカフェになっている






旧中村研一邸は現在、喫茶店「はけの森、コマグラ」として使われています。旧中村研一邸は、斜面、植生、湧水といった土地の条件を利用して設計されています。美術館一帯そのものが国分寺崖線の斜面にあり、庭の池からは現在も湧水が出ています。この水は「東京の名湧水57選」にも選ばれています。
ここで初めて、「はけの森」という名前の意味が気になりました。
「はけ」とは何なのか
「はけ」は、この地域で崖や崖下の湧水地を指して使われてきた言葉です。武蔵野台地に降った雨は地面へ浸透し、地下の礫層を流れます。そして国分寺崖線のように地形が急に落ち込む場所では、地下水が地表へ現れます。そのため小金井から国分寺、さらに世田谷方面まで、崖線に沿って湧水、池、緑地、庭園が点在しています。
ここで、たてもの園で見た綱島家を思い出しました。綱島家の旧所在地である世田谷区岡本も、同じ国分寺崖線の上でした。
こうして一つずつ掘っていくと、東京の見え方が少しずつ変わっていきます。国分寺、小金井、世田谷、そして以前歩いた谷保や国立。この武蔵野台地の水が、東京の暮らしや建築、庭園、神社をどう形作ってきたのか興味が湧いてきました。これはまた別の記事で、実際に歩きながら追ってみようと思います。



百名点ハンター 鍵屋

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