古町と鍋茶屋——港町新潟がつくった「もてなし」の文化

新潟古町の鍋茶屋の座敷で扇を手に舞う二人の古町芸妓 料理・食文化
鍋茶屋の座敷で披露された古町芸妓の舞。

港の富と人の往来が生んだ、新潟の社交文化を歩く

新潟を歩いて、最も印象に残った場所の一つが古町でした。

昼間に歩くと、そこには地方都市の現代的な繁華街があります。しかし古町通から一本、二本と路地へ入っていくと、景色が変わっていきます。板張りの木造建築、白壁、石積み、格子窓、細い路地。そしてその一角に、巨大な木造建築が姿を現します。料亭「鍋茶屋」です。

古町通八番町と東堀通八番町の間を通る東新道は、鍋茶屋があることから今も「鍋茶屋通り」と呼ばれています。港町として栄えた新潟と、その繁栄の中から生まれた花街文化の痕跡が、この一帯には今も色濃く残っています。

1846年創業——江戸時代から続く料亭

「鍋茶屋」の創業は弘化3年、1846年。まだ江戸時代です。

店名の由来は、初代が始めたすっぽん料理でした。「鍋」を売り物にした茶屋だったことが、そのまま「鍋茶屋」という名になったとされています。店の印に亀甲が使われているのも、すっぽんにちなんだものです。鍋茶屋の歴史は、1869年の新潟開港よりもさらに古いのです。

新潟はその後、港町としてさらに発展していきます。日本一の米どころを背後に抱え、信濃川や阿賀野川の水運で物資が集まり、西廻り航路を通じて全国から人や物、情報が行き交う。人が集まる場所には宿が生まれ、飲食店が生まれ、宴席が生まれます。そして宴席には芸が必要になる。こうして港町の経済と、料亭、芸妓、花街の文化が結びついていきました。

古町は、港町新潟が外から来る人々を迎えるためにつくり上げた、もてなしの文化の中心地だったのです。

船を出したい男と、船を出したくない女——湊稲荷神社

その港町文化を象徴する場所が、古町から少し離れた稲荷町にあります。タクシーの運転手さんに教えてもらった「湊稲荷神社」です。

創立は1716年。鍋茶屋の創業より130年ほど早く、江戸時代には新潟港に入る北前船の船乗りたちから、海上安全の神として信仰されていました。

この神社には、港町ならではの少し変わった伝承が残っています。境内にある「願懸け高麗犬」です。本来は動かないはずの狛犬が、台座の上で回転するのです。現在は、願い事を念じながら男性は向かって右、女性は左の高麗犬を回すと願いが叶うとされています。

面白いのはその由来です。かつて花街の女性たちは、なじみの船乗りが新潟を出航してしまわないよう、高麗犬を西へ向けて回し、西風が吹いて海が荒れることを願ったといいます。海が荒れれば船は出せず、船乗りたちはもうしばらく新潟に留まる。新潟市も北前船文化の紹介の中で、この伝承を取り上げています。

船乗りたちが航海の安全を祈る同じ神社で、彼らを待つ女性たちは、船が出られなくなることを願っていた。海へ出たい人と、海へ出てほしくない人が、同じ港で暮らしていたのです。

北前船というと、物流や交易、豪商、米、酒といった経済の話になりがちです。しかし船が港に入れば、そこには何日も人が滞在します。宿に泊まり、酒を飲み、料理を食べ、芸を楽しみ、その金が町に落ちる。そして船が去れば、その関係もいったん途切れます。湊稲荷神社の高麗犬は、巨大な海運経済を、花街で働く一人の女性の「もう少しここにいてほしい」という、ごく個人的な感情にまで縮めて見せてくれます。

港町の歴史とは、船や商品の歴史であると同時に、人が来て、もてなされ、去っていくことを繰り返した歴史でもあります。北前船によって人と富が流れ込み、その人々を迎えるために料理や酒、座敷、芸が磨かれていく。その積み重ねの先に、鍋茶屋のような料亭文化があるのです。回る高麗犬と鍋茶屋の座敷は、一見まったく違うものですが、どちらも港にやって来た人を引き留め、もてなした都市の記憶だと言えます。

明治天皇から文士たちへ——古町は新潟の「社交界」だった

北前船の船乗りたちを迎えた港町は、明治に入ると、さらに別の種類の客を迎えるようになります。

1878年、明治天皇が新潟を巡幸した際、鍋茶屋の初代・高橋谷三郎が会席料理を調進しました。江戸末期にすっぽん料理の店として始まった鍋茶屋が、維新からわずか十年ほどで、天皇の巡幸を支える料理を任されるまでになっていたのです。

これは鍋茶屋の格式を示す逸話であるだけではありません。開港によって人と物が集まった新潟で、料亭が商人や政財界人、官僚、文化人を迎える「都市の応接間」の役割を担うようになっていったことを、よく表しているように思います。

古町に集まったのは、政治や経済の人々だけではありませんでした。尾崎紅葉は、古町の座敷遊び「樽砧(たるきぬた)」を題材に「短夜の夢ならさめな樽ぎぬた」と詠んでいます。昭和に入ると菊池寛が古町花街と縁を深め、その周囲から久米正雄、大佛次郎、佐々木茂索、川口松太郎、吉川英治といった文士たちも、この町へ足を運ぶようになりました。

料理を味わい、酒を飲み、唄や三味線を聴き、芸妓の舞を見て、同席した人々と語り合う。古町の料亭は、それらすべてが一つになった社交の場でした。

だから鍋茶屋を「新潟の老舗料亭」とだけ説明すると、その歴史の半分しか見えません。港に富が集まり、商人が集まり、芸妓が育ち、そこへ政財界人や文士が訪れる。古町の料亭文化は、そうした人の流れを受け止める器として形づくられていったのです。

二度焼けても、再建され続けた建築

現在の鍋茶屋を見て、まず驚くのはその規模です。通りに面した白壁の向こうに、巨大な木造建築が何層にも重なって見えます。

ただし、創業当時の建物が残っているわけではありません。鍋茶屋は二度の大火で全焼し、そのたびに再建されてきました。現在の主屋は明治43年、1910年の建築です。

それによって、むしろ面白いことが起きています。鍋茶屋は一つの時代の建築ではなく、明治43年の主屋を中心に、昭和初期の建物などが加わりながら形づくられた複合体なのです。主屋、応接室棟、離れ座敷、離れ土蔵、土蔵、煉瓦蔵、表門・外塀の7件が国の登録有形文化財となっており、新潟市も鍋茶屋を古町花街を代表する料亭建築と位置づけています。

撮った写真を見返しても、その面白さがよくわかります。竪羽目板張りの巨大な木造部分、白い漆喰壁、石積み、格子、瓦屋根。敷地内には煉瓦造や海鼠壁の建物まであります。増築を重ねながら、それぞれの時代の素材や技術を取り込んできたことが見て取れます。

古いものを完全な状態で凍結保存した建築とは違います。商売を続けるために更新され続け、その結果として百年以上の時間が建物に積み重なっている。そこに鍋茶屋の面白さがあると思います。

古町は「現役の花街」である

鍋茶屋が文化財として保存されながら今も料亭として営業し、今も古町芸妓が座敷に上がります。

古町芸妓の歴史は江戸時代に始まり、港町の発展とともに栄えました。最盛期には400人を数えたともいわれ、京都の祇園や東京の新橋と並び称される存在でした。しかし戦後、暮らし方や宴席の文化が変わると、芸妓の数は減っていきます。

そこで1987年、新潟の企業約80社が出資して設立されたのが「柳都振興株式会社」です。芸妓を会社組織として育成し、派遣するという、全国で初めての試みでした。

伝統文化は、つい「昔から自然に続いてきたもの」と考えてしまいがちです。けれど放っておけば、文化は残りません。人を雇い、育て、稽古を続け、仕事をつくり、経済的に成り立たせる仕組みが必要になります。古町芸妓の場合、それを株式会社という極めて近代的な制度で引き継いだわけです。伝統を守るために、伝統的ではない方法を選んだ。この逆説は、文化の継承を考えるうえでとても重要だと思います。

昼の古町と、夜の古町

昼間にも鍋茶屋の周辺を歩きました。古い板壁や白壁の建物が残る一方で、その間にはバーやスナック、割烹が並び、空調の室外機や電線がむき出しになっています。きれいに整えられた「歴史地区」ではありません。けれど、むしろそこが良いと思いました。古町は歴史的建築を展示するテーマパークではなく、今も店が営業し、人が暮らし、芸妓が仕事をしている街だからです。

夜になると、その印象が一変しました。昼間は黒く沈んでいた板壁の建物から灯りが漏れ、路地には料亭や飲食店の明かりが浮かび上がる。鍋茶屋の巨大な木造建築も、格子の内側から柔らかく照らされます。そこを着物姿の芸妓が歩いていく。

昼に「古い建築」として見ていたものが、夜になると本来の用途を取り戻したように見えました。建築は、使われて初めて文化になる。そのことを強く感じた場所でした。

鍋茶屋で食べるということ

料理は先付から始まり、八寸、造り、煮物、揚げ物、ご飯、汁物、甘味へと続き、一皿ごとに季節感が込められていました。

もちろん料理そのものも大切です。どの器に盛るのか、どの季節の意匠を使うのか、どの順番で出すのか。部屋にどの掛物を掛け、庭をどの方向から見せ、その空間にどんな芸を入れるのか。料理は、それらと切り離せないのです。

今回は器を見ているだけでも楽しい食事でした。染付、色絵、土もの、漆器。一つの食事の中で、材質も時代感も異なる器を使い分けながら、料理との関係をつくっていきます。皿は単独では完成せず、料理が盛られた瞬間に初めて用途として完成する。鍋茶屋の食事は、そのことを改めて考えさせてくれました。

料理のすぐ横で、古町芸妓の舞を見る

宴席の途中、古町芸妓による舞が始まりました。舞台があるわけではなく、食事をしていた畳の座敷がそのまま舞台になります。数メートル先で扇が開き、着物の袖が動く。劇場で見る日本舞踊とは、距離感がまったく違います。

大事なのは、芸妓の芸がもともと「公演」ではなく、宴席の中に組み込まれた芸能だということです。料理を食べ、酒を飲み、会話をする、その延長線上に唄や三味線、舞がある。

現代では、芸術を見る場所と食事をする場所ははっきり分かれています。美術は美術館、演劇は劇場、音楽はコンサートホール、料理はレストラン。けれど料亭では、それらが分かれていません。建築、庭、器、料理、着物、音楽、舞踊、そしてもてなしが、一つの宴席に同居しています。料亭とは、日本文化の総合芸術の場なのだと思います。

建物の中を歩いて、その大きさを知る

食事の前後に、建物の中を見る機会がありました。長い廊下、いくつもの座敷、太い柱と梁、木の天井、階段。外から見ても巨大ですが、内部を歩くとさらに複雑です。

不思議なのは、これほど大きな施設でありながら、ホテルのようには見えないことです。部屋と廊下、庭、離れが連続しながら、どこまでも日本家屋のスケール感を保っている。建物そのものが、一つの小さな街のようにも感じられました。

明治から昭和にかけて、どれほど多くの客がここを歩き、どれだけの宴席が開かれ、何人の芸妓がこの廊下を行き来してきたのか。そう考えると、柱や床もただの古材には見えなくなります。

鍋茶屋から「光琳」へ——料理として受け継がれる文化

鍋茶屋の文化は、歴史的な建物の中に保存されているだけではありません。同じ敷地には、鍋茶屋が営む日本料理店「鍋茶屋 光琳」があり、2020年の『ミシュランガイド新潟 2020 特別版』で二つ星を獲得しています。

鍋茶屋が、建築、座敷、芸妓、料理を含めた「料亭」という総合的な文化を伝える場所だとすれば、光琳はその中心にある料理を、現代の日本料理として示す場所だと言えるでしょう。

伝統を残す方法は、建物を守ることだけではありません。料理をつくり、食べてもらい、味として次の世代に手渡すこともまた、文化の継承です。古町で育った料亭文化が、今どのような一皿になっているのか。次に新潟を訪れるときには、ぜひ実際に食べて確かめてみたいと思います。

古町で見たのは「昔の日本」ではなかった

古町の夜を歩いていると、確かに昔の日本を思わせる景色があります。けれど、今回見たものを「ノスタルジー」という言葉で片づけるのは違うと思いました。鍋茶屋は営業し、料理人は料理をつくり、芸妓は稽古を重ねて座敷に出ている。そこにあるのは、復元された過去ではなく、現在形の文化です。

私は古いものを見るとき、「いつ作られたのか」以上に、「なぜ今も残っているのか」が気になります。鍋茶屋と古町芸妓を見ていると、その答えの一つが見えてきます。伝統は、守るだけでは続かない。使われ、更新され、次の世代がそこに新しい価値を見つけて初めて続いていくのだと思います。

昼間に見た巨大な木造建築が、夜になると灯りをともして人を迎え入れる。その光景こそが、古町という街の今を最もよく表しているように思いました。

百名店ハンター 鍋茶屋 光琳

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