一冊の本を手に、虎屋の原点・京都へ


京都御所の近くにある「虎屋菓寮 京都一条店」へ立ち寄り、白い暖簾をくぐり、庭を眺めながら羊羹とお茶をいただきました。現在は東京の赤坂が実質的な本店とされているようですが、茶道のお稽古では何度も虎屋さんの始まりの話が出てきます。
今回、読み直してのは長沢伸也・染谷高士『老舗ブランド「虎屋」の伝統と革新―経験価値創造と技術経営―』です。
本書が分析しているのは、羊羹のおいしさだけでは白、室町時代後期の創業から五世紀にわたって暖簾を守ってきた虎屋が、商品、店舗、接客、文化活動を通じて、どのような価値を顧客へ届けてきたのかを明らかにしています。
虎屋が販売しているのは、羊羹だけではない
本書の重要な視点が「経験価値マーケティング」です。
商品が持つ機能や品質だけでなく、商品を知り、選び、購入し、味わい、誰かに贈り、その記憶を残すまでの体験全体を価値として考えます。
虎屋の羊羹を例にすれば、価値は「甘くておいしい」という味覚だけでは完結しません。
店構えを見たときの期待、包装を開ける瞬間、菓子の名前から想像する季節、手土産として相手へ渡す時間までが、一つのブランド体験になります。
本書では、経験価値を次の五つに分けて考察しています。
1.感覚的経験価値——五感で味わう和菓子


和菓子は、しばしば「五感の総合芸術」と表現されます。
- 視覚——自然や季節を思わせる形と色
- 聴覚——菓銘の響きや、名前から広がる物語
- 嗅覚——素材が持つほのかな香り
- 味覚——口の中に広がる甘味と風味
- 触覚——楊枝を入れた感触や舌触り
店舗の建築、暖簾、庭、器、包装も、この感覚的経験の一部です。
商品単体ではなく、それを取り巻く環境まで設計されているからこそ、食べた後にも印象が残ります。
2.情緒的経験価値——季節や記憶を呼び起こす
和菓子は、日本の自然や季節を小さな形の中に表現しています。
桜、若葉、梅雨、月、紅葉、雪。
味そのものだけでなく、菓子の姿や名前によって、過去の記憶や季節への感情が呼び起こされます。
また、和菓子には、自分で食べるだけでなく、誰かをもてなす、感謝を伝える、節目を祝うという役割があります。
菓子を介して生まれる安らぎや喜びも、虎屋が提供する価値の一つです。
3.知的経験価値——知ることで味わいが深くなる
虎屋には、職人の技術、原材料の知識、菓子の由来、宮中との関わりなど、長い歴史の中で蓄積された物語があります。
その背景を知ることで、目の前の一切れが違って見えてきます。
本書では、職人や販売員が持つ知識、顧客へ文化的背景を伝える仕組みも、ブランド価値を支える要素として扱われています。
ここで重要なのが虎屋文庫です。
虎屋文庫は、和菓子文化の伝承と創造を目的として1973年に設立された菓子資料室です。菓子の見本帳や古文書などを収集・保存し、展示、出版、講演会などを通じて和菓子文化を伝えています。
手元に、虎屋文庫による講演会の冊子があります。
虎屋が保存しているのは、昔の菓子や製法だけではありません。和菓子を取り巻く歴史、言葉、意匠、行事、人々の記憶までを文化資料として残しているのです。
この活動自体が、知的経験価値を生み出していると考えられます。
菓子箱から生まれた茶道具「三木町棚」


虎屋について考えていると、表千家のお稽古で扱った「三木町棚(みきまちだな)」を思い出します。
三木町棚は、表千家4代・江岑宗左(こうしんそうさ)の好みとされる小棚です。中央に引き出しが設けられているのが大きな特徴です。
この引き出しには、菓子にまつわる興味深い由来が伝えられています。
江岑が紀州徳川家に仕えていた頃、藩主から賜った菓子の杉箱を気に入り、その箱を引き出しとして生かすよう若党に命じ、棚を作らせたというものです。箱に入っていたのは羊羹だったともいわれています。
本歌の引き出しは、既製の菓子箱を転用したため、少し不揃いな素朴さが残っていたとも伝えられています。
贈られた菓子を味わって終わるのではなく、その箱まで捨てずに見立て、茶の湯の道具へ作り替える。そこには、ものの用途を読み替え、新しい価値を与える茶の湯の創造性があります。
菓子が人と人をつなぎ、その箱が道具となり、由来が数百年後の稽古まで語り継がれていく。この逸話は、商品を味わった瞬間だけでなく、その後の行動や記憶まで含めて価値と考える、本書の「経験価値」とも重なります。
4.行動的経験価値——和菓子を生活へ取り入れる
和菓子を買う、茶とともに味わう、季節の行事に用いる、誰かへの手土産にする。
虎屋の商品は、顧客の行動や生活様式にも働きかけます。
和菓子を選ぶことは、日本の季節や文化を日常生活へ取り入れることでもあります。
商品が生活の一部になることで、顧客とブランドの関係は一度の購入では終わらなくなります。
5.関係的経験価値——人と文化をつなぐ
贈答やもてなしに使われる和菓子は、人と人との関係をつなぎます。
同時に、長い歴史を持つ虎屋の商品を選ぶことは、日本文化や地域、季節とのつながりを感じる行為にもなります。
直営店を中心とした販売、文化的な展示や講演会、知識を持った販売員との会話。こうした顧客との接点が、単なる売買を超えた関係を築いていきます。
京都一条店で、本に書かれた価値を体験する
虎屋は室町時代後期に京都で創業し、後陽成天皇の在位中から御所の御用を勤めてきました。
現在の京都一条店がある土地でも、少なくとも1628年以前から店を構えていたことが分かっています。
訪れた虎屋菓寮 京都一条店では、季節によって表情を変える庭や、江戸時代から残る蔵を眺めながら甘味を楽しめます。
現在の建物は、建築家・内藤廣氏による設計です。伝統的な屋根や暖簾、木や石の質感を残しながら、大きなガラス面を通して庭と現代的な空間がつながっています。
伝統の核を守りながら、現代の人が心地よく過ごせる形へ変換しているところに、虎屋の「伝統と革新」が現れていました。
庭を眺めながら羊羹をいただいた時間も、本書で説明される五つの経験価値が重なった体験だったと思います。
味覚だけでなく、庭の緑、器の手触り、静かな空間、京都御所の近くで菓子を味わうという歴史的な背景までが、一つの記憶になりました。
ものづくりをする人が虎屋から学べること
本書は経営者やマーケターだけでなく、服、陶器、工芸、美術など、何かを作っている人にも参考になります。
優れた商品を作ることは大前提です。
しかし、作品や商品が顧客の手元へ渡るまでには、多くの接点があります。
- どこで作品を知るのか
- どのような場所で見るのか
- 誰から説明を受けるのか
- どのような包装で持ち帰るのか
- 開封したとき、どのように感じるのか
- 使った後、どのような記憶が残るのか
- 誰かに話したくなる背景があるか
虎屋では、厳選した材料と職人の技術を守るだけでなく、店舗、接客、包装、文化活動までを一つの体験として積み上げています。
品質が信用を生み、その信用が次の世代へ受け継がれていく。
そこに、老舗ブランドが長く続く理由が書かれています。
伝統とは、変えないことではない
虎屋の事例から分かるのは、伝統と革新は対立するものではないということです。
守るべき材料、技術、精神を見極め、その本質を損なわない方法で、店舗や伝え方を現代へ合わせていく。何も変えなければ、伝統は過去のものになります。
反対に、すべてを新しくすれば、ブランドが積み重ねてきた記憶が失われます。
何を守り、何を変えるのか。
その判断を繰り返してきたことが、虎屋というブランドの強さなのでしょう。
祇園祭の京都で訪れた虎屋菓寮は、本で読んだ経験価値マーケティングを、味覚、建築、庭、器、歴史を通して実感できる場所でした。
羊羹を食べるという小さな行為から、日本文化と五世紀の記憶へつながっていく。
虎屋が作っているのは、菓子であると同時に、その菓子をめぐる時間なのだと思います。



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