織田有楽斎が残した、もうひとつの桃山文化


縁あって国宝に指定された茶室の中に、実際に座りました。茶道の茶会が犬山で行われ、愛知県犬山市を訪れました。
その会場となった日本庭園・有楽苑には、織田信長の弟であり茶人として知られる織田有楽斎が建てた国宝茶室「如庵」があります。
普段、表千家の稽古を続けている自分にとって、この日の大きな楽しみの一つが如庵の内部へ入ることでした。
国宝茶席三名席のひとつ「如庵」


如庵は、京都・山崎の妙喜庵にある「待庵」、京都・大徳寺龍光院の「密庵」と並び、「国宝茶席三名席」の一つに数えられています。
建てたのは織田有楽斎。本名を織田長益といい、織田信長の実弟にあたる人物。武将として戦国時代を生きながら、千利休に茶の湯を学び、のちには茶人として独自の美意識を残しています。
如庵が建てられたのは1618年。
大坂夏の陣から数年後、有楽斎が晩年を過ごした京都・建仁寺の正伝院に建てられました。つまり、現在の犬山に最初からあった建物でありません。
明治末期に三井家の所有となり東京へ移築。その後、神奈川県大磯を経て、1972年に現在の犬山へ移されます。400年以上前に京都で生まれた小さな茶室が、東京、大磯、そして犬山へと場所を変えながら残されてきました。
二畳半台目という小さな建築


如庵の内部は「二畳半台目」といって、約5.9平方メートル(約1.8坪)です。一般的な賃貸物件の畳でいうと、約3.6畳分です。
しかしこの茶室は、単純に面積だけで理解できる建築ではありませんでした。床の間、炉、躙口、窓、中柱、亭主の位置、客の位置。限られた空間の中で、それぞれの要素が人間の身体と細かく関係しています。
如庵で特に特徴的なのが、床脇に斜めの壁を設けた構成です。写真は、川越にある山崎別邸の茶室ですが、この如庵の写し。(*如庵は国宝のため外観以外の写真撮影が禁止されています。。。)
直角を基本とする日本建築の中に、斜めの線が入り込んでいます。このため如庵は「筋違いの囲」「筋違いの席」とも呼ばれています。
「筋違いの囲」は、如庵の空間をダイナミックかつ広く見せるための、有楽斎ならではの建築アイデアです。躙口から茶室に入ってすぐ左手に「床の間」は、前述したように部屋の隅に向かって「斜め」に作られています。
この斜めの壁と、足元に敷かれた三角形の板が生み出す仕掛けには、主に3つの面白い意味があります。
1. 部屋を広く錯覚させる「パース効果」
二畳半台目という非常にコンパクトな部屋ですが、壁をあえて斜めにカットすることで、視覚的な奥行きが生まれ、空間が実際の面積よりもグッと広く、開放的に感じられるようになります。直線的な四角い部屋に、斜めのラインを入れるというモダンな空間マジックです。
2. 「死角」をなくして客を安心させる
如庵が建てられたのは、まだ戦の記憶が生々しい時代でした。通常の直角の壁だと、部屋の隅に「見えない死角」ができてしまいます。有楽斎は武士の心理として、「この茶室には怪しい死角は一切ありません。安心してくつろいでください」という清廉潔白なメッセージを、壁を斜めにすることで表現したという説があります。
3. 給仕をスムーズにする「動線の確保」
如庵には、お茶やお菓子を運ぶための専用の「給仕口」がありません。亭主が出入りする「茶道口」からすべてを運ぶ必要がありました。
壁を斜めに削っておいたおかげで、茶道口から客席へ移動するスペースが広くなり、お盆などを持った給仕がスムーズに美しく動けるという機能的なメリットも計算されています。
「有楽窓」と呼ばれる独特の窓
もう一つ、如庵を特徴づけるのが「有楽窓」です。竹を細かく詰めるように並べた窓で、織田有楽斎の名からそう呼ばれています。光の条件が揃うと本当に虹のように見えることから、別名「虹窓」とも呼ばれています。
有楽窓は、窓の外側に紫竹と白竹を隙間なくびっしりと並べて打ち付けた構造(竹詰打)になっています。これが虹のように見えるのには、以下のような面白い理由があります。
なぜ虹に見えるのか?
- 光の分光(プリズム効果):竹と竹のほんのわずかな極細の隙間を太陽光が通り抜ける際、光が回折・分光して、障子にうっすらと赤や黄色、青みを帯びたグラデーションが映し出されます。
- 外部環境の色の映り込み:太陽の直射日光ではなく、外の青空や木々の緑、地面の色が反射したやわらかな光が、竹の格子によって横方向に分解され、室内の障子に色彩の縞模様となって投影されます。
いつでも見られるわけではない幻の光
この「虹窓」の現象は、天気、季節、そして太陽の角度など、さまざまな条件が完璧に揃った瞬間にしか現れません。そのため、特別見学会などで運よくこの虹色の光を目にできた見学者は「本当にラッキー」と言われるほど、神秘的で貴重な光景とされています。
織田有楽斎は単に部屋を明るくするだけでなく、光そのものをデザインして楽しんでいたのかもしれません。
また、茶室の窓の基本形である「下地窓」における藤葛の結び方にも、茶人たちの美意識や面白い逸話が残されています。
1. 藤葛の結び方
如庵の土間庇などには、壁の下地をそのまま見せる「下地窓」があります。この下地窓は、縦横に組んだ葦や竹を藤葛で縛って固定するのですが、このカズラの絡ませ方には茶人のこだわりが凝縮されています。
- あえて不規則に絡ませる「侘び」の美:
均一にきれいに結ぶのではなく、カズラが自然の中で木に絡みついているような「無作為の美」を表現するため、あえて不揃いに、かつ複雑にカズラを絡ませて結びます。 - 利休や有楽斎のこだわり:
千利休が始めたこの手法を、織田有楽斎も如庵でさらに洗練させました。カズラの端をわざと少し残して、まるで生きている蔓が壁に這っているかのように見せる演出など、武士でありながら自然の生命力をそのまま空間に取り込もうとした美学が隠されています。
2. 「有楽窓」の竹の並び
カズラが「有機的で不規則な美」であるのに対し、如庵の代名詞である「有楽窓」は究極の「規則的な美」で作られています。
- びっしりと並んだミステリー:
有楽窓は、カズラなどの自然に任せた隙間を作らず、紫竹と白竹を一本の隙間もなくギチギチに詰め打ちにしています。 - なぜここまで詰めたのか?:
一説には、戦国時代を生き抜いた有楽斎が、外からの刺客の視線を完全に遮りつつ、内側からは外の気配を察知できるようにした「武将としての防衛本能」から生まれたデザインとも言われています。しかしその冷徹なまでの規則正しさが、結果として太陽光を分解し、前述の「虹」を生み出すという奇跡に繋がっています。
カズラを使って自然の姿を残した下地窓と、竹を極限まで敷き詰めた人工的な有楽窓。如庵はこの「不規則」と「規則」の対比が同じ空間に同居している点も、建築的に非常に高く評価されているポイントです。
壁に貼られているのは「古い暦」
さらに特徴的なのは「暦張り」です。如庵では、壁の腰張りに古い暦が使用されています。現代の感覚で考えれば、国宝建築の壁に使用済みの新聞を貼るというのは少し意外に感じるかもしれません。
如庵の「暦張り」は、そのユニークな特徴から、如庵は別名「暦張りの席」とも呼ばれています。
1. 暦張りとは?
茶室の壁の最下部には、壁の土が衣服につかないよう、保護のために紙を張る「腰張り」という技法が使われます。
通常は白紙や反古紙を張るのですが、有楽斎はここに役目を終えた「古いカレンダー」をびっしりと張りました。
2. どんな暦が張られているの?
主に使われているのは、現在の三重県で江戸時代に作られていた「伊勢暦」です。
- 文字の面白さ: 当時の暦は木版刷りで、独特の太く力強いフォントで日付や吉凶が細かく書かれていました。これが壁一面に並ぶことで、モダンなグラフィックアートのような独特の美しさが生まれています。
- 歴史のタイムカプセル: 現在の如庵に張られている暦の中には、1629年(寛永6年)までさかのぼるものもあります。有楽斎が茶室を建てた当時の時代の空気が、そのまま壁に保存されています。
3. 暦張りに込められた「美意識」と「哲学」
なぜわざわざ「古い暦」を選んだのか、それには2つの大きな理由があります。
- 「経年変化」と「侘び」の表現
茶道では、新しくてピカピカしたものよりも、時を経て味わいが出たものを尊びます。「過去の時間」が刻まれた古い暦は、まさに時間の経過を視覚化した究極の侘びの素材でした。 - 「用の美」とユーモア
暦は、その年が過ぎれば完全にゴミになってしまいます。有楽斎は、そんな価値のなくなったものに「茶室の壁」という新しい命を吹き込み、美として再利用しました。この高いクリエイティビティと、ちょっとした遊び心が当時の茶人たちを唸らせました。
この暦張り、実はわざと上下を逆さまに張ってある部分もあります。諸説ありますが、「文字として読ませるためではなく、あくまで『模様』として楽しむため」にあえて上下を崩したと言われており、有楽斎の卓越したデザインセンスが伺えます。
有楽窓の均一な竹のラインと、壁に広がる暦の文字のコントラストは、今見ても全く色褪せない美しさです。
「如庵」という名前の謎
名前についても興味深い説があります。
1. 洗礼名「Joan(ジョアン)」の当て字説
織田有楽斎は、キリスト教に対して非常に寛容だった兄・信長の影響もあり、1588年に大坂でオルガンティノ神父から洗礼を受けたと記録されています。
その時の洗礼名が、キリスト教の聖人ヨハネにちなんだ「Joan(ジョアン/ヨハネ)」でした。
晩年、京都の建仁寺に隠居した有楽斎は、自らの洗礼名である「ジョアン」の響きに、仏教(禅宗)の庵(いおり)を意味する文字を当てはめ、「如庵(じょあん)」と名付けたと言われています。
- 「如」: 仏教用語の「如(あるがまま、真実の姿)」
- 「庵」: 小さな草庵
つまり、「キリシタンとしての自分」と「禅の境地(茶の湯)」を、一つの名前の中で融合させたという、非常に深い意味が込められているそうです。
2. 禁教令の時代を生き抜いた「隠れ蓑」
有楽斎が京都に「如庵」を建てた1618年(元和4年)当時、キリシタン禁教令(1612年〜)はすでに始まっており、キリスト教への弾圧はどんどん厳しくなっていました。
本来であればキリシタンであることを完全に隠さなければならない時代です。しかし有楽斎は、あえて「如庵」という一見すると普通の禅宗風の名前でありながら、口に出して呼ぶと「ジョアン」と聞こえる庵号を掲げ続けました。
幕府に目をつけられないよう、仏教の衣をまといながら、心の中の信仰を静かに守り続けた「武将茶人としてのスマートな抵抗」とも受け取れます。
3. 茶室の構造にも見えるキリスト教の影?
このキリシタン説を裏付けるように、如庵のユニークな構造には、西洋や教会を連想させる要素がいくつも見つかっています。
- ステンドグラスのような光: 前述の有楽窓から差し込む、太陽光が分解された美しい七色の光は、まるで教会のステンドグラスの光のようでもあります。
- 床の間のうろこ板: 如庵の床の間の前には、前述の三角形の板があります。古代キリスト教において、ギリシャ語の「イエス・キリスト・神の息子・救世主」の頭文字を並べると「魚(イクサス)」になることから魚はキリスト教徒の秘密のシンボルでした。そのため、有楽斎がわざわざ三角形の「鱗板」を床の間に配したことに、信仰のメッセージを読み解く説があります。これが教会の「祭壇」や、ひざまずいて祈る場所を意識した設計なのではないか、とも囁かれています。
日本の伝統文化である「茶の湯(禅)」の究極の形でありながら、実はその名前と空間には、遠いヨーロッパの「キリスト教」の薫りが美しく溶け込んでいます。
如庵が「国宝」として今なお人々を魅了し続ける理由には、こうした有楽斎のドラマチックな生き様が映し出されているからかもしれません。


映画で見る織田有楽斎——『千利休 本覺坊遺文』
如庵という建築から織田有楽斎という人物に興味を持ったなら、ぜひ見てほしい映画があります。
熊井啓監督の『千利休 本覺坊遺文』(1989年)です。
原作は井上靖の小説『本覺坊遺文』。千利休が豊臣秀吉の命によって自刃してから27年後を舞台に、利休の弟子・本覺坊が、師はなぜ死を選んだのかを辿っていきます。
千利休を演じるのは三船敏郎。本覺坊は奥田瑛二。そして織田有楽斎を演じるのが、萬屋錦之介です。
この映画では、有楽斎が単なる「織田信長の弟」として登場しません。すでに戦国武将としての時代を終え、利休の死の意味を考え続ける晩年の茶人として描かれています。
本覺坊を自らの茶席へ招き、
「利休はなぜ死ななければならなかったのか」
という問いを重ねていく。
映画の中では、有楽斎が利休の思想を読み解くための、もう一人の探究者のような役割を担っています。映画に登場する有楽斎が、晩年に実際にどのような空間をつくったのか。その答えの一つが、今、自分が入ったこの小さな茶室「如庵」だからです。
ちなみに1989年には、もう一本、織田有楽斎が登場する重要な映画が公開されています。
勅使河原宏監督の『利休』です。
三國連太郎が千利休、山崎努が豊臣秀吉を演じた作品ですが、ここで織田有楽を演じているのが、後に内閣総理大臣となる細川護熙。勅使河原宏自身が華道・草月流の家元であったこともあり、劇中の茶室、茶道具、花、衣装まで含め、桃山文化そのものを映像として見ることのできる作品です。
同じ1989年制作です。一方では萬屋錦之介。もう一方では細川護熙。二本の「利休映画」に、それぞれ異なる織田有楽斎が登場していたというのも興味深いところです。
信長の弟であり、利休に学んだ茶人である有楽斎。秀吉にも家康にも仕えた武将でもありました。大坂城を去り、最後は京都で茶の湯に生きた人物です。
如庵というわずか二畳半台目の空間を理解するには、こうした有楽斎の複雑な人生を知ることも、一つの入口になるのかもしれません。





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