川越を歩く——徳川の記憶から、商人の町、近代建築へ

ステンドグラスの窓がある旧山崎家別邸の外観 料理・食文化
和洋の意匠が共存する旧山崎家別邸。

喜多院、川越城本丸御殿、蔵造り、旧山崎家別邸、小川菊。「小江戸」という言葉だけでは収まらない川越

川越に初めて行ってきました。

徳川家と深く結びついた寺院、城下町、商人たちが築いた蔵造りが残り、明治、大正、昭和へ進むと、銀行建築や洋館、和洋折衷の住宅まで現れますが、それも重要文化財として登録されています。

川越は「小江戸」と呼ばれていますが、江戸から近代へ、日本の町が変化していく過程を歩いて見られる場所なのかもしれません。

喜多院——川越に残る徳川の記憶

最初に喜多院に訪れました。喜多院と徳川家との関係を考えるうえで欠かせない人物が、天海です。1599年に喜多院の住職となった天海は徳川家康の信任を受け、喜多院は幕府との結びつきを強めていきます。

1638年の川越大火では山門を除く堂宇の多くを焼失しましたが、三代将軍・徳川家光の命によって再建されました。このとき江戸城紅葉山の別殿が移築され、現在「家光誕生の間」「春日局化粧の間」と呼ばれる部屋も残されています。

川越観光というと時の鐘や蔵造りの町並みが先に思い浮かびますが、川越が江戸幕府にとって重要な場所だったことを理解するなら、喜多院から始めるのが分かりやすいかもしれません。

建築を見るだけでなく、川越に徳川の痕跡が残っているのかを考える入口になります。

川越城本丸御殿——観光地の前に、ここは城下町だった

次に川越城本丸御殿へ。川越城は1457年、太田道真・道灌親子によって築かれたとされています。江戸時代には江戸の北を守る重要な城として位置づけられ、幕府の重臣たちが城主を務めました。

現在残る本丸御殿は1848年に完成したもの。

かつては16棟、建坪1025坪という大規模な御殿でしたが、明治維新後に多くが解体され、現在残っているのは玄関や大広間など一部です。

華美というより、むしろ静か。長い廊下、畳、障子、簡潔な木部。

その空間を歩いていると、川越が単なる商人の町ではなく、まず政治と行政の町=城下町だったことが実感できます。

そもそも、お城といえば「天守閣」をイメージしがちですが、江戸時代の実際の政治や藩主の生活は**「御殿」**という建物で行われていました。

川越城の何がそこまで珍しいのか、政治と生活の視点からさらに深く紐解くと、以下の3つのポイントがあります。

1. 政治と生活の場(御殿)は、真っ先に壊された

明治時代になると廃城令などによって全国のお城が取り壊されました。その際、実用性のない天守閣は一部が記念碑的に残されましたが、広大な平屋である御殿は「学校」や「役所」にするために解体・移築されやすく、ほとんどが姿を消してしまいました。そのため、天守閣よりも御殿の方が圧倒的に残っていません。

2. 全国で「4ヶ所」しか残っていない

現在、日本全国で江戸時代の「城郭御殿」が残っているのは、以下の4つの城だけです。

  • 本丸御殿(2ヶ所):川越城(埼玉県)、高知城(高知県)
  • 二の丸御殿(2ヶ所):二条城(京都府)、掛川城(静岡県)

城の中心部である「本丸」にあり、政治と生活の拠点だった建物がそのまま残っているのは、全国で川越と高知の2つしかありません。

3. 表(政治)と奥(生活)の境界が体感できる

川越城の本丸御殿には、家臣たちが控えていた「家老詰所」や、公式な会議を行った「大広間」といった政治のスペースが今も残っています。当時の藩主や家臣たちがそこでリアルに生活し、政務に追われていた空気感をそのまま肌で感じられる空間は、歴史的にも本当に貴重です。

川越市立博物館

次は道向かいの川越市立博物館へ、大山詣りをはじめとする旅や信仰に関する資料が展示されていました。以前の記事で大山阿夫利神社について書きましたが、ここ川越から大山阿夫利神社に参拝した青物商人たちの持ち物が有形民俗文化財として保管されるなど、関東での大山信仰の大きさがわかります。

山車の模型や祭礼関係の資料も印象に残りました。この川越祭りもユネスコ無形文化遺産に登録されています。

山車一台を見るだけでも、建築、染織、木工、彫刻、衣装といった複数の文化が重なっています。

蔵造り——「江戸らしさ」は明治の大火から生まれた

そして川越の一番街へ。黒い壁と重厚な瓦屋根が連続する景観は観光客で賑わっていました。現在の蔵造りの町並みが形成される大きな契機となったのは1893年の川越大火だそうです。

町の約3分の1が焼失するなかで蔵造りの建物が焼け残ったことから、その耐火性が注目され、商人たちが蔵造りの店舗を次々と建てていきました。

つまり、現在「江戸らしい」と感じる川越の景観には、実は明治の災害と、その後の復興の歴史が重なっています。保存された古い町というより、災害に対応しながら更新されてきた町といってもいいかもしれません。

時の鐘——町が先に取り戻したもの

一番街を歩いていくと、屋根の間から時の鐘が現れます。時の鐘は約400年前、川越藩主・酒井忠勝によって創建されたとされ、現在の鐘楼は4代目。

1893年の大火で焼失した後、まだ自分たちの店も十分に再建できていない時期に、商人たちは町の時を知らせる鐘をいち早く再建したといいます。

生活を再建するだけなら、自分の店や家を優先しても不思議ではないのに、まずは町全体が共有する「時の鐘」を取り戻したそうです。時の鐘はランドマークである以上に、川越という町の共同体意識を象徴する建築として見ると、少し違って見えてきます。

江戸の町に、突然現れる近代建築

さらに歩いていくと、蔵造りの町並みの中に、洋風建築が混じり始めます。

その代表の一つが現在の川越商工会議所です。

もともとは1927年に武州銀行川越支店として建てられた建築で、古代ギリシャを思わせる列柱と装飾を持つルネッサンス・リバイバル様式。

川越が面白いのは、この建物だけを切り取れば近代都市なのに、少し歩けば蔵造りがあり、その先には寺社があること。

江戸、明治、大正、昭和が区画ごとに整理されているのではなく、同じ町の中で混ざりながら残っています。

旧山崎家別邸——商人の富が「近代」へ変わる

今回、特に良かったのが旧山崎家別邸。川越の老舗菓子店「龜屋」5代目・山崎嘉七の隠居所として1925年に建てられた建物。

設計したのは、東京帝国大学で辰野金吾に学び、三菱でも建築を手がけた保岡勝也です。

外観には洋館の要素がありながら、中へ入れば数寄屋的な和室があり、庭があり、階段にはステンドグラスがあります。

主屋の南側に広がる和風庭園の東側、木立の先にひっそりと佇んでいます。主屋の和室や廊下から庭園越しにその風情ある姿を望むことができます。

この茶室は、愛知県犬山市の有楽苑にある国宝茶室「如庵」を写したものだそう。如庵といえば、織田信長の弟で茶人でもあった織田有楽斎が建てた茶室。昨年、犬山を訪れた際に実際に如庵の内部へ入る機会がありました。

その経験があるだけに、川越で再び「如庵」の空間構成に出会ったことが嬉しかったです。茶室は単に保存されるだけではなく、「写し」という形によって別の土地へ伝わっていく。建物をコピーするというより、空間に込められた思想や美意識を継承する。茶道具に「写し」があるのと同じように、建築にもまた、型を受け継ぎながら次の時代へ渡していく文化があるのだな、と感じました。(国宝・如庵についての記事はこちら)

茶室は主屋と同様に保岡の設計によるもの。茶室および腰掛待合は、主屋とともに川越市の指定有形文化財を経て、国の重要文化財として指定されています。

和か洋か、どちらか一方に決めるのではなく、当時の日本人が西洋文化を受け入れながら、それまでの住宅文化をどう残そうとしたのかが、そのまま建築になっています。

日本が近代化を自分たちなりに編集していた時代の痕跡として見る方が面白いと思います。

龜屋——建物の歴史が、いま食べられる

旧山崎家別邸から山崎美術館を見学して龜屋へ。龜屋は1783年創業。

初代は信州から川越へ出て菓子作りを学び、独立して店を構えました。旧山崎家別邸を見たあとで龜屋の菓子を買うと、「川越土産」以上のものになります。

商人が富を蓄え、銀行や地域経済にも関わり、住宅を建て、文化を残す。そして、その商売自体が現在も続いている。

歴史が博物館の中だけにあるのではなく、普通に店を開けて、いまも菓子を売っている。これが老舗の凄さだと思います。

小川菊——1807年から続く、うなぎ屋で昼食

昼食は小川菊へ。創業は文化4年、1807年。

江戸後期から200年以上続くうなぎ専門店で、現在の店舗も大正初期に建てられた木造3階建てです。インバウンドで外国の方が客層の6割強を占める、という感じで2時間待ちでした。なのでもし小川菊さんを訪れるなら、受付予約をしてから街並みを歩くのが良いと思います。

長く続く店を訪れると、「昔のものを保存している」というより、昔から続いている行為を自分も一度体験しているという感覚があります。

建築を見ることと、そこで食べることは、本当は別の体験ではないのかもしれません。

「小江戸」だけでは見えない川越

一日歩いて改めて感じたのは、川越の魅力は「昔の町並みが残っている」ことだけではないということでした。

喜多院、川越城に感じる江戸とのつながりから、蔵造りには大火からの復興があり、時の鐘には商人たちの共同体意識がある。そして近代になると銀行建築や洋館が現れ、その一方で龜屋や小川菊のような江戸期創業の商いは現在まで続いている。

「江戸を見ること」ではなく、江戸から現在まで町がどう変化してきたのかを見ることにあるように思います。

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